これはきっと罰だ。
胸が痛いだけの、後悔に苛まれるだけの、重い罰を受けている。




宇宙の闇は底が無い。
誰もが願う戦争の終結、平和を勝ち取る方法もまた、国が一枚岩でないように星の数程存在する。
国家元首も然り。
盟主もまた、然り。
腹の底に隠し持つは、民に掲げるデコレーションされた夢物語や理想だけでは、無論ない。


「……やだな―…」
カガリは呟いた。
今年で19を迎えるオーブの代表は、今宵ばかりはボルドーレッドのシフォンドレスに身を包み、慎ましやかに佇んでいた。
まだ何処か幼さを残す琥珀の双眸は今は陰っていたが、生まれ付いての気品は損なわれる事は無く、漂う気迫はまるで若い獅子のようであった。
ドレスと同色の液体がグラスの中で波を打つ。
その滑らかな水面に、タキシードを着込んだ少年が映り込んだ。

「…何やってんだよ、あんた」
無造作に伸ばされた黒い前髪の隙間から、紅蓮の瞳が呆れたようにカガリを見下ろす。
手にはカガリと同じワイングラス。
しかし、こちらもカガリと同様全く減っていない。
琥珀の瞳が目線だけ寄越すと抑揚の無い声を出す。

「…気が重い」
「ぶーたれるな。仮にも為政者なら、こーゆー社交パーティーを政治に利用するくらい腹黒く動け」
「生憎だが、生まれて今迄隣人を疑う事なかれと育てられた私の腹は、筋金入りに白いんだよ」
「…あぁ、そうすか」
シンは大仰に溜息をついた。

「けど、わざわざあんたプラントまでお茶しに来たわけじゃないだろ?
周りを見ろよ。あんただけ乗り遅れてるよ」
「……」
「…よし、百歩譲って貴族や軍人にはおべっか使わなくてもいいから。
せめて評議会議員にだけはもっと近付いて、親しくなってこいよ。
忘れたんじゃないだろうな?和平協定なんてな、危ういもんなんだぜ」
「……………解ってるよ…」
「だからぶーたれるなって」
「たれてないっ!」
「どこが」
年下の護衛が再び溜息をつく。

カガリはむっと睨み上げた。
「言っとくが裏の裏は表、なんて単純なもんじゃないんだぞ!
探っても探っても底の知れない心理戦を、腹ばっか黒い連中相手にやらなきゃならない私のイライラはどうすればいい!
フラストレーションは溜まる一方だ!」
「化かし合いの苦労なんて、俺には解らねえよ。
だけど、あんたがそれを嫌いだからって理由で会合を避けるわけにいかないって事は解るね。

オーブの代表だろうが」

カガリは呻いた。
シンはよく理解している。
世界でただ一つの中立国オーブ、それを背負っているのは誰なのか。
その誉れ高くも重苦しい事実は何よりカガリを沈黙させる言葉なのだ。
そして、

「…お前、たまには歯に衣着せろ」
「甘えたいなら他当たれ」

目の前の少年に、言葉を選ぶという謙虚さは微塵も存在しなかった。



元来真っ直ぐで、どちらかというと単純な気質のカガリは、会合の場での駆け引きが好きにはなれなかった。
しかし、純粋さは未熟さと直結する。
それは為政者としての欠陥とも言えた。

ただ平和を語るだけなら街の子供でも出来る。
実現し、維持する事が重要であり、その為に何より必要な対策が、世界各国やプラントとの友好―――いや、非敵対関係を保つ事。
それらの関係は似て非なる。

国のトップ達は欲深い者が多い。
彼等が求めるものは表向きはどうあれ、友好国ではなく、随従国である事が多い。
皆自分の国が可愛いからだ。
少しでも自国の有益になるよう、少しでも自国が優勢になるよう、少しでも他国にとって――脅威であるよう望むものだ。
今は非であっても、いつか非でなくなった時、脅かされるくらいなら、脅かす側に立つ為に。

(……歪んでる)
その歪みの感情が、カガリは酷く嫌いだった。

沢山の犠牲を払って漸く手に入れた平和なのに、いつかまた戦争が起きた時を想定して、数ある交渉は進み、談笑は弾む。
どちらが上かを量りながら。

平和という名の巣をつつけば、飛び出すのは欺瞞の蜂。

カガリは呟いた。
「…皆で手に入れた。皆が手に入れた。
なのにまだ、皆が何かを疑ってる気がする」

耳に届いたいつになく低く固い声に、シンが眉をひそめる。



何より薄ら寒いのは、テーブルを囲む彼等が全てを承知な事だ。
どんな議題を持ち上げようとも、その巨大な円卓を取り囲む空気のなんと空々しい事か。
走るのは計算や策ばかりで、情を全く感じない。
俯いた先、輝く大理石の床には、逆さまに映り込んだ己の姿が見える。


「代表…?」
いぶかしむシンの声が遠い。



和平協定が結ばれてやっと湧いた安心に陰りがさしたのはいつだったろう。
評議会に呼ばれたのだ、と笑んだ少女はいつもどおり美しかった。


『貴女では《彼》を救えませんわ』


陶器のように滑らかな肌。
桜色の綿菓子のような髪。
涼しげな春の空を湛えた双眸。
心地よいソプラノ。
全てがいつもどおり美しかった。
ただ、一つだけ違ったのは、


『戦争をしましょう』

その瞳の陰り。



突然の別れは、不穏な言葉で幕を開けた。

唖然とする自分の前で、可憐な少女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、カガリのたった一人の弟を連れ宇宙へと去った。
国を預かるカガリに、追い掛けるなどという行為が出来る筈もなく。

成す術も無く、ただ、見送るしか出来なかった。
大戦の時のように。
―――《彼》を見送ったあの時と、全く同じように。

(私はあの時と同じだ。
何も変わってない。

なのに、世界は混沌から平和に変わったのだと言う。でも…)


琥珀が陰った。
(私のいる此処は、本当に平和か?)



「…おい」
真紅の瞳が覗き込む。
俯いたままのカガリに目を丸くし、何やら考えていたかと思うと、やおらカガリの肩を掴み無理矢理正面を向けさせた。
「…どうしたんだよ、ほんとに」
「……」
「…アスハ」
長い付き合いなのに未だにファーストネームで呼ぼうとしない無愛想な護衛が、ゆっくりと目を細めた。
「あんたの目の前さ、今、何が見える?」
カガリがシンを見上げ、小さく答えた。
「……シンが見える」
「他には?」
「…大理石の柱と壁。趣味の悪い額縁に入ってる派手な絵。やたら豪勢な料理。でっぷり太ったおっさん。高飛車なマダム」
シンが頷き、
「そうだ。肝っ玉のちいせぇ政治家達がお互いを探り合ってる」
「…何が言――…」
「よく見ろって言ってんだよ」

カガリから手を放し、身体を退かした。
「そこに血は流れてるか?」

広がる視界に目を凝らす――流れている筈がない。
戸惑うカガリを眺め、シンは言った。

「流れてないなら、そこは平和だ。俺は疑わない」



カガリはばっと隣を振り向き、口を開けたまま、シンを凝視した。
ややあって、止まっていた息を少しずつ吐き出していく。
「……シンって…」
紡ぐ声は掠れ、震え、途切れた。
その様を眺め口許を緩めたシンは、しかし、すぐにそれを尖らせた。
「…笑うならちゃんと笑え、このバカ」

カガリの顔がくしゃりと綻ぶ。
白く細い指が、シンを咎めるようにわざとらしく指す。
「さっき、和平なんて危ういって言ってたくせに!」
「っ…言葉のアヤだ」
決まり悪そうにそっぽを向く、その瞳に吹き出した。


真紅の瞳の少年は、吐き出す言葉の殆どがぶっきらぼうで辛辣だ。
だが時折、その瞳の中に、主を気遣う色が隠されている事に気付く。
和平協定など危ういと言った同じ口で、此処は平和だと言ってのける。

その不器用な優しさに、いつも少しだけ救われる。



シン・アスカ。
一年前から雇い始めたカガリ専用の護衛の一人。
カガリより二つ年下のオーブ出身者であり、元ザフトのトップガン。
母国を愛し、故に家族を失った原因を作ったアスハの理念を疎んじ、憎んだ。
カガリを罵倒し、国ごと滅ぼそうとしていた。

全く人生とは不思議なものだ、とカガリは思う。
かつて、誰より自分を苛んだ少年が、今では誰よりも側にいて守ってくれるのだから。

いつだったか、その理由をもう一人の護衛に尋ねた事がある。

『…私じゃ、あいつを救えなかったからじゃないですかね?』


過剰に陽気な声で、それなのに何処か淋しそうな笑みで、瞳を逸らせて答えた顔が忘れられない。
宇宙へと発った少女と同じ台詞を言った、その瞳の陰りを。

(救えなかった、か…)

締め付けられるような痛みを錯覚だと振り切るには、まだ記憶が鮮明過ぎた。
目を閉じれば、瞼の裏でちらつく翡翠に眩暈がする。
自嘲するように、軽く笑った。



――ふと、ホールがざわめいている事に気付いた。人の波が道を開けて誰かを壇上に導いているようだ。
「…ようやくかよ」
シンが呟く。
カガリは瞳を向けたまま、動かない。

アイリーン・カナーバが議長の座を退いたのはつい先月の事だ。
その後釜と、空席を埋める新顔が今夜発表される。

「随分揉めたって話だ。オーブにとっても大事だぜ、この人選は」
シンは、真剣に前方を見つめる。
「評議会にオーブ親派がもう一人増えたら、あんたもやりやすくなる」

もう一人って何、と問おうとして止めた。
評議会入りを果たしている例の少女を指しているのだろうが、シンは彼女が去り際に零した問題発言を知らない。
――そもそも親派という前提自体が間違っている気がするのは、共に大戦を戦い抜いた友に対して失礼だろうか。

カガリは天を仰いだ。
(…シン。お前は優しい)

だが、足りない。脳裏に落ちる影が、消えない。



歪んだ平和だ。
各国のトップが願うのは、たった一国分の幸せ。
それでも、その心の底にあるのが今尚癒えずにある戦争への恐怖なのだと言われれば、どうしようもない。
恐怖は何より強い感情で、自分は弱い者を責める事は出来ない。

――けれど、もし。

そんなものは恐怖でも何でも無いのだと言われれば。
全く逆の種の感情なのだとすれば。

きっと自分はそれを責め、決して許さないだろう。


「出て来た…!」
シンの鋭い囁きが空気を裂く。
カガリは背が粟立つのを感じた。
ホールに設置してある舞台脇から歩み出てくる、その姿。

たっぷりと揺れる桜色の髪。
春の空を閉じ込めたような青く澄みきった瞳。
小さな愛らしい唇が歌う様にその名を紡ぐ。


「こんばんは。この度評議会新議長となりました…ラクス・クラインですわ」



一瞬の静寂の後、風が下から巻き上がるように、ど…っとホールが沸いた。


永遠の歌姫。
ピンクの妖精。
舞い降りた女神。
彼女にまつわる数多の通り名はすべて美しく神秘的だ。
そして、その響きと裏腹な行動力の派手さもまた、人々を引き付けるカリスマ性となっている。

シンは感嘆の息を吐いた。
戦争を終結へと導いた平和の盟主の人気は変わらずのようだ。
「…流石ラクス・クライン。期待を裏切らないな」

シンが今までに会った事があるのは、たった二度。
いずれもオーブの慰霊碑の前で、あの英雄に寄り添っていた。
シンはふと隣の少女に視線を送ろうとし、途中で固まった。

舞台袖からもう一つ現れた姿がある。


「こちらは、新たに加わった評議員ですわ」



カシャン…!

カガリがワイングラスを落とした。
ホールにいる全員が一斉に目を向ける。

「ア……代表!」
シンが慌ててカガリを硝子の破片から遠ざけるが、一点に集中したまま動かない琥珀に瞳を見開く。
壇上のラクスが、嬉しそうに微笑んだ。
「お久し振りですわ。アスハ代表」
カガリは額を抑えた。
頭が酷く痛む。

シンは震える拳を握り締め、壇上を見上げた。
紅蓮の瞳が吊り上がっていく。

新たに舞台袖から現れたのは、忘れられない色。
カガリの傍にずっとあった、色。




「…初めまして、アスラン・ザラです」

今はラクスを守るように立つ翡翠の瞳が、二人をただ見下ろしていた。



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