闇のレールをひた走る。
終着駅など無くていい。




「一言よろしいでありますか?」

黒い髪。真紅の瞳。
慇懃な言葉遣いとは裏腹に、その表情には謙虚さのかけらも見当たらない。




SPは何処までもSPである。
それは、前任の件で痛感済みだ。

それまでどんなに仲の良い仲間であっても、恋人であっても、主従関係を強いられれば距離は遠のき、対等ではなくなり、いずれ心身ともに染まっていく。

優しい関係が切なさに軋み、萎縮し、或いは歪み。

体面上は変化しているが、心は繋がっているのだなどと無邪気に信じ続けられる程強くもなく、己の愛すら明言出来なくなっていく。

元首とSP。
この境界線は何を持ってしても、絶対不可侵である―――――――筈なのだが。



カガリは思わず目を剥いた。

(忘れてた……
こいつはシン・アスカで、アスランじゃない!!)


「シン、お前!何を普通に入って来てる!?控えろ!」
慌てて立ち上がる琥珀の先で、真紅が不遜に細められた。
「…自分の役目は貴女を守る盾になる事であります」

それはそうかもしれないが、この場でそれを言うのか。
カガリは額を抑える。
「…いいから下がれ!」
再び叱責するカガリの瞳には懇願の色も交ざっていたが、シンは苛々と瞳を更に吊り上げていた。

(なに、言われ放題になってんだよ…!!)

主人の不甲斐なさにどうにも黙っていられなかった、こちらの心情も察して貰いたいものだ。
(踏み込む気なんてなかったよ、俺だって…!)


元首とSPの絶対不可侵の境界線。
行き当たりばったりで飛び越えた先にあった元首の困惑に、微塵も罪悪感を感じないわけではない。
喜ばれるわけがない事も、知っていた。
こちらを凝視する政治家達の視線の冷えきっていく様が、もはや後に退けない瀬戸際を思わせる。


しかし、うなだれていくカガリを、ただ黙って眺めている事など出来るわけがない。
カガリは自分にとって守るべき主人であり、同志なのだ。
彼女がこのまま論破される事態は、我慢ならない。

(俺だって、なかったんだ)

人は己の持たない心を理解しにくい。
理論的に説明されて初めて理解する事もある程に。


彼女の武器は、正義と誠意。
絶対に濁らず、折れないその心。

けれど、その心は理論武装されない。
彼女が最も苦手とするからだ。
故に同志以外を説得し、丸め込み、また或いは、黙らせる術に欠けている。




(踏み込む気なんて、なかったけど!!)

奥歯が噛み締められて、軋む。
瞳が、未だ黙したままの男をとらえた。
自分を踏み込ませたのは、紛れも無くあの男なのだ。


一度はカガリの護衛であった過去もあるくせに、何故一斉攻撃される彼女を放っておけるのかが、シンには解らない。
(黙ってるってのは、肯定。
じゃなきゃ、傍観を決め込んでるって事になるんだぜ…!
解ってんのか?あの人は!)

昔と立場が違うし、会談の場において私情で物を言うのは、確かに為政者失格なのだろう。
だが、他の誰がどのように判断していようとも、ミネルバでの彼は、私情に流されない人間などではなかった。
敵軍に固執する軍人にあるまじき甘さ、切り替えの温さ。
実力はエース級であるのに、メンタル面でのそれはとても百戦錬磨のものと思えなかった。
煮え切らなさに、どれ程苛立たせられた事か。


(なのに、今のアスランはどうだ?)
シンは唇を噛んだ。
胸を占めるのは、苛立ちと僅かな不安。

(…いくらなんでも平静過ぎるだろ!)


以前の二人の繋がりが希薄な筈は無い。
ならば、アスランが変わったのだと思うしかない。
自分が想像するよりも。
カガリが信じるよりも。

動揺する事もなく、冷静に切り替える事が出来るようになったのだ。


それが成長という事なのだろうか。
為政者としての、正しい姿に。
だとすれば。

(俺が苛々すんのは、理不尽だ…!
そんな事はわかってるよ!けど…!!)

脳裏に落ちるのは、琥珀の涙。


(けど・・・!!

あいつはあんたを思って、泣いたんだ!!)


奥歯の軋む音が、カガリに聞こえたのかもしれない。
「……シン?」
小さくうろたえた声が鼓膜を打った。

(アスハはあんたを思って泣いたのに!!)

あの男は、間違った事をしているわけではない。
けれど、やるせなさに、胸が痛い。
歯痒くて、苛立たしくて、苦しい。

会談が始まってから、カガリが一度も彼を見ようとしていない事くらい、とっくに気付いていた。
それ程までに、心を揺さぶられているのだと。
(…許せない)
不可侵の領域に思わず踏み込んでしまう程に、あの男――アスラン・ザラが。

(なんで今更現れた!!!)


「…なるほど。アスハ代表の護衛もまた、刃付きの盾という事か」
評議員の一人が嘲るように笑った。
「しかし、情けない。主の躾が悪いようだ。これは盾というより、剣であろうよ」
「然り!命令も聞けず勝手に鞘から飛び出した、不良品よ。解任したらいかがかな」

カガリが何かを言う前に、シンは慇懃に頭を下げた。
「与えられた役割だけをまっとうするのでは、無能でしょう。
自分は盾です。剣ではありません。
しかし、必要とあらば刃付きにもなれます」

評議員達が表情を消した。
カガリの背筋が凍る。

(和平協定があてにならないと言ったのは誰だ!!
誤解されるセリフを不用意に吐くな、この馬鹿!!)


ラクスがフッと笑った。
「シン。今の発言は外交問題に関わりますわよ」
「御心配なく。代表がそれを望まない限り、自分はずっとただの刃の無い盾です」
「命令に従うだけなら無能…なのではありませんでしたか?」
「本音と建前は違います。自分は代表のそれを読み解く事が出来ます。
隠された本音を感じ取って、自分に出来る事をしようと思うだけです」
「…まぁ。素晴らしいですわね」

感嘆の声を漏らすそれは、鈴の音を思わせる愛らしさがあったが、同時に浮き世離れした違和感を覚える。

僅かに眉をしかめてから、シンはアスランをひたと見据えた。
嫌味の一つも言ってやらねば気が済まなかった。

「そういえば…貴方は読み解く力はあっても、刃というだけでそれを持とうともしなかったですよね?」

その平静な顔を、崩せないかと思った。

「しかも、盾にもなりきらなかったですよね」


ラクスがちらりとアスランを見る。

「今の貴方は、一体何なんですか?何故一言も発さず、ただそこにいるんです?
誰かの盾になる気はもう無いんですか」
視界の端で、カガリが顔色を無くすのが解った。

けれど、シンは止める事が出来なかった。
胸に宿った不安が、総て苛立ちに変わるのが解る。

時が経てば、人は変わる。
カガリも変わった。
けれど、アスランは変わってはいけなかった。
こんな風に現れるべきではなかった。


「自分はどんなに立場や形が変わっても、ずっとアスハ代表の側にいます」

必死にオーブを守ろうとしているあの女を、惑わすつもりなら許さない。


「ずっと、アスハ代表を守って生きていきます」

傷付けるつもりなら、許せない。



冷えきった空気の中、護衛の言葉だけが溶けて消えた。
カガリは琥珀を揺らせて、視線を落とす。
包帯の巻かれた薬指が、僅かによれた。






やがて、一つの声が落ちた。



「…盾、ね」


それは、会談が始まって以来初めて聞く声だった。
カガリは肩を震わせ、引き寄せられるように初めて顔を向け………見なければ良かったと後悔した。

カガリを真直ぐ見つめるその双眸は、静かだった。


「俺は、もう盾にはならない」
波立つ気配のまるで無い、どこまでも落ち着いた水面のように、静かだった。

吐かれた言葉の指し示すものに、カガリは強く手を握る。

「確かに一言も発さないのは失礼だったな。すまない、緊張していたんだ。
だが、会議の場でSPに発言権は与えられていないぞ。シン」
苦笑を浮かべたアスランは、一年前までカガリのそばにあった懐かしい彼そのものだった。


兄のような、父のような、懐深い柔和な笑み。
(…変わらないままで、なのに、そんな風に言うのか)
震える瞼の裏で、カガリは思う。
(…違う。変わらない筈が無い)

彼の穏やかな声の裏に、何も潜んでいないなど有り得ない。
昔、彼が味わった苦しみも、歯痒さも、カガリは痛い程知っていた。
痛い程知っていたのに、それでも、それ以上に彼は痛みを抱えていて、結果、彼は自分の元を離れたのだ。
何も潜めていない筈は無い。
SPに対する、オーブの体制に対する、それを甘受するカガリに対する、彼の発言は重い。
変わらない筈が、無いのだ。


翡翠の瞳は、人の侵入を拒絶する静かな山奥の湖面のようで、カガリは瞳を伏せた。

(…統てを悟りきったような、そんな目をしないでくれ…)




評議員がアスランの言葉に続いた。
「まったくだ!分というものをわきまえ、退室したまえ!!」
「いえ。構いませんわ。シン・アスカ」
鈴の音を鳴らすように、ラクスが笑った。

「しかし、クライン議長…!!」
「皆様。彼もまたアスランと同じ、元ミネルバのトップガンにして、フェイスですのよ」

立ち上がり苦言を言い掛けた評議員が、目を見開き、シンを見つめ、次いで直ぐさま周囲と目配せする。
やがて、再び探るようにシンを暫く見つめた後、
「……………失礼した」
ゆっくりと席に座り直した。

変わり身の早さに、シンとカガリは顔を見合わせた。
戦士に対する敬意だろうか……政治家にしては、些か珍しい気がするが。
あの目配せは一体何を意味するのだろう?

「何か進言したい事があったのでしょう。おっしゃって下さいな」
ラクスがふわりと微笑み、小首を傾げた。
シンは暫く訝しげに評議員達を観察していたが、やがて遠慮がちに口を開いた。
「…オーブの軍事力を削り、代わりにプラントの軍事力が増すのでは意味が無いのではありませんか。
貴方方の理屈なら、脅威の対象が入れ替わっただけになると思うのですが…」

カガリは目を見開き、シンを見つめた。

「まぁ…私達は脅威になどなりませんわ」
「根拠は?」
「その意思がありませんもの」

シンが鼻白む。
「……都合良過ぎやしませんか」
カガリはジワリと冷や汗をかく。
意外と冷静な考えには感心したが、やはりこの護衛は誰に対しても歯に衣着せないようだ。
アスランが口を開いた。

「平和を維持するとは世界の均衡を維持する事だ。では、世界の均衡とは何だと思う?」
諭すような物言いだった。
シンはムッとして、半目になる。
「…さっきも思ったんですがね、顔見知りだからって、公式の場でもそういう口調で話すのはやめて貰えませんかね」
「お互い様だろう。シンは結構感情的になっていると思うが」
アスランは再び苦笑し、睨み付けてくる真紅の瞳を受け流した。

「世界の均衡とは、力の均衡の事だ」
「力?」
「今現在、何処の国よりも軍事力を保有しているのはオーブだ。
プラントは何もオーブを弱体化させようとしているんじゃない。
我々と丁度同じだけの力を持つ為に、少しだけ分けて欲しいとお願いしているんだ」

シンは口を開き、そして閉じた。
暫く黙ったままアスランを見つめ、なんだそれ、と小さく吐いた。
翡翠が口の端を持ち上げる。
それを見て、シンは更に腹の中に石を入れられたような不快感を覚えた。
「…丁度同じだけったって…きっちり測れるものではないでしょう?
ピッタリ同じなんて、本気で出来ると思ってるんですか?あんたは」

ラクスが小首を傾げた。
「まぁ…無理ですの?
では、私達のこの審議も無意味になってしまいますわ。シン」
「なってしまいますって……」
「本当に無理なんですの?」
「…」
「無意味なんですのね?」
「…………………公平を期すというのなら…………せめて第三国の査察が必要かと…」

シンの返答にカガリは天を仰ぎ、評議員達は一斉に頷いた。

「なるほど。そうすると、地球連合か」
「アジアはオーブの息が掛かっている可能性がある。スカンジナビアはアスハと縁があると聞く」
「ではユーラシア…」
「あそこはレジスタンスが多い。査察と称して何をしてくるか!」
「アラスカは?」
「まだ復興中だ。それに、プラントを憎んでいる者がまだいるだろう」


カガリは小さく呻いた。

第三国を選ぶのは、容易ではない。
利権と金が絡むからだ。

しかし、呻いたのはそれが理由ではない。

(議題がいつの間にか変わっているぞ…!)



シンは唖然とした。
「ま、待って下さい!まだ決定なわけじゃ…!
オーブは既に流出している軍事技術を返して頂きたいと!!」
真紅の瞳に、柔らかく細められた空色が映る。
「零れた水は盆には戻らないものですわ」


人は変わる。
カガリも変わった。
シンも変わった。
そして。


「脅威になる気が無いのなら、力を分けて下さいな。
それが出来ないのなら……」


かつての同志。
かつての盟友。
英雄であり、被害者。
カリスマであり、傷跡。



歌姫が笑う。
救えない、と言ったあの瞳で。

「我々との戦争の意志有りと、判断します」



立ち尽くすシンの隣で、カガリは震えた。

共に歩んだかつての盾はオーブに仇なす剣となり、切っ先を元首に突き立てた。

そうして、会談は終了する。




人は変わる。

しかし、世界の混沌だけは、変わらない。


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