どれ程の年月を超えてきたのだろう。
見る者に威厳と荘厳さを感じさせる古い桜の巨木は、夜空にその腕を伸ばし、真下に佇むカガリを覆っているようだった。
金の髪が闇夜に映えてキラキラと輝く。
ラクスはぼんやりとその光景を眺めていた。
つい先程まで、四人で薄紅色の桜を愛でながら少しの甘酒と料理に舌鼓を打っていた。
久しぶりの会合に自然と話も弾み、気付けばとうに夜も更け,今はそれぞれが帰り支度を始めている。
暫く経って、ラクスは控えめに声を掛けた。
「・・・・・カガリさん」
ぱっとこちらを振り向く琥珀の瞳は、ラクスと解ると途端に破顔した。
「ごめん。ゴミ捨てついでに寄り道しちゃってた・・・」
「ふふ。こんなに素敵な夜ですもの。寄り道されたくなって当然ですわ。けれど・・・・」
「探させちゃったか」
「ええ。少し。アスランがとても心配されているようでしたので」
カガリが、緩く頭を掻く。
「えぇぇ〜・・・・・そんなに時間経ってない筈なのに・・・・」
「おトイレかもしれませんからと、同姓である私がお迎えに上がったのですけれど。
本当はご自分が探しに行きたそうでしたわ」
からかうように覗き込めば、カガリは頬を赤くして口を尖らせた。
「・・・ったく!あいつは心配性が過ぎるんだ!子供じゃないんだぞ!」
むくれたような、呆れたような、気恥ずかしそうな声が、ラクスの鼓膜に響く。
空色の瞳がゆっくりと笑んで、言葉を紡いだ。
「女性扱いされているのですわ。恋人ですもの。過剰に心配して当然ですわ」
「えっ・・・」
トマトのように赤くなる顔。
その初々しい反応に、ラクスは口の端が上がるのを感じた。
「愛の大きさの現れ、なんですわ。きっと」
「そっ・・・・そんな大袈裟なもんじゃないって!!」
「恥ずかしがらずともよろしいのに。大切に想いこそすれ、恋人として・・・・」
「うわぁぁ!!やめてくれその恥ずかしい単語は―――っ!!」
両手で顔を隠して悶絶するカガリを眺めて、
「照れ隠しもアグレッシブですわね」
小さく微笑んだ。
―――――遠く、波がざわめく音がする。
(・・・・・可愛らしい方)
とうの昔に己が失ったその無垢さが、羨ましい。
いっそ何も感じない程鈍感であったなら、この胸もまた痛む事は無かったのに。
気を引きたくて擦り寄り、爪を立てては飛び退き、そのくせ放っておけば寂しくて鳴く。
まるで猫のような彼らの戯れは、時として刃のようにこの胸を貫く。
風が桜を揺らした。
ラクスは瞳を伏せ、耳を澄ませる。枝の揺れる音と葉の散る音だけが、脳を支配する。
沈黙が落ちた。
「あ、あのさ・・・・ラクス」
女性にしてはハスキーで甘い、けれど何処か子供がむずがるような口調でカガリが呻いた。
「こ、恋人とかになると、だな!
そのぉ・・・・なんか、あの、色々変わっていかなくちゃいけないのかな?」
耳が赤いのは、恐らく未だ残る照れが起因しているのだろう。
「一般的にはどうなんだろう?私はその、そーゆーの疎いからよく解らなくて・・・。
だから、いつも通りにしか振舞えないんだけど・・・」
一度、言葉を区切っって、小さく付け足す。
「・・・アスランがどうかは、解らないだろう?」
ラクスは伏せていた目を上げた。カガリは続ける。
「私を見る目が、昔と違う気がするんだ。どう違うのかって言われると・・・上手く説明出来ないんだけど」
「・・・」
「ラクスなら解ってくれるよな?」
風は未だ枝を鳴らせ続けている。花弁が音もなく舞った。
「緊張しちゃう時もあるんだ。昔はそんなのなかったのに。
真っ直ぐ見詰められて・・・何考えているのか解らなくて・・・・・」
目の前で困った様に笑う少女の悩みとやらが、本気なのか冗談なのかは解らなかった。
頭上で枝が大きく軋む。
ラクスは耳を澄ませる。
翡翠色の波が静かに押し寄せてくる。
寄せては返す波の音―――その正体を、多分知ってはいるけれど。
「恋人でない昔の方が、楽でしたの?」
闇夜の中でよく映える琥珀に、知らず握り締めていた指が血の気を失い白くなる。
気付けば、口が動いていた。
「彼に特別に好かれる事が重いのですか?」
想像よりも発した声は低く、掠れていた。
琥珀の瞳が、戸惑ったように見開かれる。
闇世の中で薄紅色の花弁が青白く光る。
等しく、ラクスの空色の瞳もまたそれを映しこみ、死人のように青白かった。
カガリはうろたえ、視線を彷徨わせ、声を必死に絞り出す。
「そ・・・そうは言ってな」
「おっしゃってますわ」
間髪入れず返される笑みを含んだ言葉に、カガリは口を噤んだ。
暫しの沈黙の後、カガリは項垂れ、
「・・・・何かを言おうとして、口を噤むあいつの姿をもう何度も見てる。
何度も見てるから、きっと何かあいつは押さえ込んでるだろうってのもわかってる。
けど・・・・・・・・・・・・私は一度だってそれを追及した事が、無い」
ぽつりと呟いた。
「怖い気がするから」
落ちた声は頼りなく、普段の彼女とは程遠く。
ラクスはただじっとその姿を見つめ、続く言葉に集中した。
「変化を求められているような気がするから」
―――口が渇いていく気がした。
頭上の枝が再び、ギシリと軋む音を立てる。
(・・・・・・・・・・・・何が、私ならわかるって?)
「自覚があるんだ。こんな風に悩む自体が今迄じゃ考えられなかった・・・私は変わってしまった。
だから、怖いんだよ・・・・・これ以上変わるのは」
睫の奥に隠された琥珀の瞳が揺れた。
「今迄の自分が、自分達が・・・・・・・・・・・失われるのは」
か細い声は、確かに僅かな不安を示していたけれど。
―――恋愛に関して男性より女性の方が早熟だというが、目の前の少女はどうやら階段の最初の一段目で躓いたようだ。
意識の変化。関係の変化に付いていけていない。
気後れをしている。
眩暈がした。頭がガンガンと痛んだ。
彼女は此方の想いなど露程も知らぬのだから、無神経だと責めるのは筋違いだ。
解っている。解っては、いるのだけれど。
(・・・・・・・・・拷問ですわね。この問答)
心配だよ。と言った紫暗の瞳が脳裏に影を落とした。
(私が傷付く前に御自分が傷付けたいと仰いましたわね、キラ・・・?)
ラクスは、彼が好きだった。
生まれながらに業を背負った、優しい大戦の英雄。
泣きたいくらい、大切な同志。
だからこそ、彼のたった一人の大切な姉も大切だった。
(・・・・だから、駄目)
勇猛果敢なカガリ。
大戦の折、自分は確かに少女に好意を抱いた。
己と同じように父を亡くし、平和の為に立ち上がった同い年の存在に共感し、友愛を感じた。
だからこそ。
(私を傷付ける事が出来るのは、たった一人。あなたのお姉様だけなのです)
ラクスは何かに耐えるように目を閉じた。
彼の言葉はいつも温かく、真摯に此方を思って言ってくれているのだと解るから、切なくなる。
救いを求めているわけではないのだと、非情な言葉を投げ掛けそうになってしまう。
「・・・ラクス?」
反応が無い事を不安に思ったのだろう、気遣わしげにカガリが此方を覗き込んでいた。
ラクスはなんでもないと微笑んで、けれど、会話を打ち切る為に適当な答を返す事にした。
「・・・失うばかりではないでしょう。恋は得るものの方が多いのでは?」
カガリは少し首を傾げ、そうか、と呟いた。
そして、微笑んで問うた。
「ラクスは、キラとの関係で何を得た?」
邪気の無い、声で。
「何を失った?」
何ヲ得テ、何ヲ失ッタト?
睫が痙攣を起こしたのが解った。
感情の波が瞼の裏から迫ってくる。
底なしの夜空のように。
鉛の弾丸のように。
それらはラクスの心を容赦無く押し潰していく。
どうしようもなく、乾き切った笑みが浮かんだ。
―――その無邪気な笑顔を消してみたかった。
「安息と寂しさを得ましたわ」
ゆっくりと見開かれていく琥珀を正面から受ける。
「・・・本当の恋と、伸ばせた筈の腕を失くしましたわ」
それを願う資格など無いのに。叶う未来がある筈も無いのに。
――――長い、沈黙だった。
「・・・ラクスも、そんな風に笑うんだ」
ぽつりと零れたカガリの呟きが、冷えた夜の空気に触れた。
色を失った空色の瞳は何処か乾いていて、ラクスもそれを自覚しているから、黙って桜へと視線を移す。
「・・・・・御存知ですか?桜の花弁が薄紅色なのは、木の下に死体が埋まっているからなのだそうですよ。
その血を吸って赤く色付くのだとか・・・」
止まらない眩暈に視界が揺れる。
ラクスは両膝を地に付けた。
「彼は、この桜の木のような方なんですの。そして、私はこの下に埋まっている死体のようなものでしたわ」
桜が散った夜の地面は、何処か終わりを告げているようで物悲しかった。
落ちた花弁を一枚拾い上げ、白い指先でゆっくりと撫でる。
視界の端に映るカガリの表情に、ラクスは哂った。
『彼』が誰を指すのか、この目の前の少女は解っていないに違いない。
自分は、一度だってそんな素振りは見せなかった。
けれど、もしお互い逆の立場なら、きっと自分だけは察するに違いないのだ。
カガリは無邪気で、鈍感で、盲目過ぎる。
(想像も付かないのでしょうね?)
唯一の友人に抱くのは、愛しさと羨望、そして憎らしさ。
(・・・・・・・・・・・・・・・胸が、痛い)
自分は盲目ではない。
鈍感ではない。
無邪気ではない。
無垢などでは断じてない。
なのに。
(何故?)
退き時が解らない。捨て時が解らない。
そんな筈はないのに――――それでも、諦められない。
(・・・いいえ、違う)
解っている。本当は知っている。
自分には真実が見えている。
けれど。いや、だからこそ。
――――――何も聴こえないよう、ただ、耳を塞ぐのだ。
黙っていたカガリが、漸く静かに口を開いた。
「・・・桜の花弁がハート型に見えるのは、愛を模しているからだと聞くぞ」
ラクスは顔を上げずに笑む。
指先で撫でられていた花弁が、擦れて破れた。
「あらあら・・・それでは、私は彼に愛をも吸い上げられているのでしょうか」
琥珀の瞳が細められた。
「あぁ、きっとそうですわ。そうして色付いた花を摘み取って、彼は降らすのです。
愛する彼女の肩に。髪に。瞳に。心に」
「・・・・・ラクス。自分の好きな人をそんな風に言っちゃ駄目だ」
痛ましげな声音に、ラクスは無表情に視線を上げた。
「・・・まるで恨んでるみたいに聞こえる」
瞬間、ラクスは声を上げて笑っていた。
カガリが驚いたように此方を見ている。
「恨む・・・?そう、恨んでいるんですわ!」
「ラクス!?」
非難するような琥珀が酷く憎らしくて、ラクスは膝を立たせてカガリに歩み寄った。
破れた花弁がはらりと落ちる。
「何故です?貴女だって、さっき怖いと申されていたではありませんか?
アスランとの関係に!それは、拒絶の一つでしょう?」
「ちっ・・違う!拒絶なんて・・・!」
「二人きりの夜に・・・・彼の隣に・・・・御自分に!
私もかつてのあの人の選択を拒絶しているだけですわ!!」
自分を選ばなかった彼の手を思い出すだけで、苦しい。
勝手な話だ。先に彼を捨てたのは自分だというのに。
セピアになど出来はしない。
だって、愛していたのだ。
本当は、誰よりも愛していたのだ。
なのに、もう彼を得る資格すらない。未来もない。
わかっている。わかりたくない。知っている。知りたくなかった。
こんな恋なら。こんな想いなら。
「いっそ、殺してくれたらいいですのに・・・・・・・・・・!!」
パァン・・・・
乾いた音が、響いた。
ラクスは赤く腫れた頬を呆然と押さえる。
正面には、瞳を潤ませたカガリが肩を弾ませて此方を睨んでいた。
震える声が鼓膜に響く。
「やめろよ・・・お前らしくないよ・・・・・・・っ」
悲しくて仕方がないといった顔で涙が流れるのを懸命に堪える姿は、ラクスの胸を更に締め付けた。
「お前は死体なんかじゃない。お前が好きな奴だってそんな風に思ってないさ。
だって桜は・・・お前にも降っているのに」
ラクスは目を見開いた。
差し出されたカガリの指先にあるのは、小さな、小さな桜の花弁。
「恋は、得るものの方が多いんだろう・・・?」
青白い花弁が、月の光を受けて真っ白に光った。
空色の瞳が、ゆるゆると色を取り戻す。
一筋の涙が、つ・・・と零れた。
(・・・・・かなわない)
自分は、盲目ではない。
鈍感ではない。
無邪気ではない。
だからこそ、こんな風に綺麗にはなれない。
「ごめんなさい・・・・」
涙を拭って背を向ける。
そのまま、ゆるゆると歩き出した。
途中、呼び止めるカガリの声が聞こえたけれど、立ち止まりはしなった。
涙に濡れた声で呟く。
「何を失い、何を得たかと仰いましたわね。
彼は、真実の愛を得たのです。
失ったものは・・・・・・・・・彼にしか解りませんわ・・・・・・・・」
(震える貴方を抱き締められなかった私を、貴方はもう二度と抱き締めてはくれないのだろう。
―――どんなに泣いて震えても)
2007.3.30
ずっと、とどめの言葉が欲しかった。