「置いてかないで…!」


ヒズメの音がまるで地鳴りのように近付いて来る。
血と舞い上がる土埃の匂いが、風に乗ってやって来る。
鍔競り合いの音を耳が捕らえた。

確実に迫り来る戦の足音に村人達が戦々恐々と逃げ惑う中、足が竦んで立てない一人の娘がいた。
歳の頃は15を越えた辺りか。
陽に焼けてくたびれた長い髪。
それを束ねるホツレだらけの山吹色の布。
ツギハギだらけの浅葱色の着物。
草鞋は何処で脱げたのか、裸足である。
花も恥じらう乙女になるべき年頃も、乱世を生きる百姓には全く関係ない事だった。

「置いてかないで…っ」
華奢な身体を震わせ、泣いて縋る樟葉を彼女の叔母は哀れむように見やったが、何しろもう時間が無い。
一際大きな侍の咆哮が聞こえると、我に帰ったように飛び上がり、まずは己の命が大事とそのまま背を向け一目散に逃げ出した。
「ちょ…ちょっと待って!置いてかないでぇっ…!!」
もう何度目になるか解らぬ叫びは届かず、伸ばした腕は空しく宙を切る。

えぐえぐと嗚咽を繰り返しながら涙に濡れた瞳で左右を見渡すが、もはや自分以外の百姓の姿は見当たらない。
自分の臆病さとどん臭さに、いよいよ樟葉は身体を大きく震わせ泣き出した。

(どうして、どうして、せめて木陰の近くにいなかったの私!?
こんな道の真ん中にへたり込んでたら、馬に踏み潰して下さいと言ってるようなものよ…!!)

運良く避けてくれるなどという奇跡は、考えない。
先程から響いてくるヒズメの音の数は尋常ではない。大群だ。
それに、仮に奇跡的に馬に踏み潰されなかったとしても、侍からは不興を買うだろう。
戦の邪魔をしたからとか、多分どうせ、そんなので。

(斬り捨てられる!!絶対絶対斬り殺されるんだっ…!!)

瞬間、雷が落ちたかと思わせる程の大気を震わす咆哮が、ビリビリと響き渡った。
びくっと振り返れば、そこには視界を覆い尽くす数の騎馬軍が迫っていた。

――一瞬で頭が真っ白になった。

(…戦好きの狂人共…!!戦なんて大っ嫌い…っ!!)


ギュッと目を閉じ、死を覚悟し、厳めしい鎧武者を乗せた馬の強靱な前脚が予想にもれなく樟葉を踏み潰した――――かに見えた。



「……え?」

己に何が起こったのか解らなかった。



宙に浮いた身体の遥か下を騎馬が轟音と共に駆け抜けて行く。

(…空、飛んでる…?)
混乱した思考は、



「大丈夫?」



突如頭上から落ちてきた声に、色を取り戻した。



ジワジワと身体に感覚が蘇り、樟葉は漸く己が誰かの小脇に抱えられている事に気付く。
空高く跳躍しているのは、どうやら今の声の主らしい。
主はそのまま木の上に軽やかに着地し、呆然とする樟葉をゆっくりと降ろすと、腰の抜けたままだった彼女はそのままベシャリと尻餅を付いた。
二人を乗せた枝が大きく揺れ、樟葉は思わず男の足にかじり付く。
「きゃー!きゃー!いーやーー!!」
「うわっ…」
驚いたような声が上がり、けれど、びくともしないその足にギャンギャン騒いでいた樟葉も徐々に声を尻すぼみにし、枝の揺れが収まった頃、恐る恐る顔を上げた。

そこには、軽薄そうな一つの笑顔。
「…落ち着いた?」


迷彩柄の服。
逆立った夕焼け色の髪。
顔を覆うような鉢金。
ひょろりとした体躯を折り曲げるように覗き込まれれば、頬と鼻に緑色のペイントが見えた。


「――変な服…」
言い掛けて慌てて口を噤んだが、もう遅い。
武具を着けている所から察するにこの男は戦人。
一にも二にも斬る事しか頭に無い人種なのだと、樟葉はずっと昔から疑わない。
思わず冷汗が流れたが、

「はは。よく言われる」

目の前の戦人はヘラリと笑みを返しただけで、罵声も刃も降っては来ず、樟葉は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
男は軽い調子で言葉を続ける。
「俺様こそ、驚かせちゃったみたいで悪かったね。
でも、あそこにいるあんたを何とかしろって上から言われてさぁ」

――あ、と樟葉は小さく声を発した。
つい今し方、自分はこの男に間一髪の所を救って貰っていたのだ……肝心な事を忘れていた。

(そうよ。この方は命の恩人…!戦人にも優しい人種がいたんだ…!)
一にも二にもの認識は、改める事にしよう。

樟葉は赤面して、ばっと勢い良く頭を下げた。
「す、すいません!御礼が遅くなりまして!!ありがとうございます…っ!!」
「…あー。助けて正解だったのね」
「は?」
言葉尻の違和感に、樟葉は目を瞬いた。
「…正解、ですか?」
「いや、戦場のど真ん中で全く反応無いから、俺様は自殺志願者だと思ったんだけどね」
飄々と言う男に、樟葉は頬を引きつらせた。
「…そ…そんなわけないでしょう…」


未だ木の下からは、鍔競り合いの音と馬の鳴き声、ヒズメと矢の放たれる音に加え、咆哮と悲鳴が混じっている。
こんな残酷で野蛮な戦に巻き込まれて死ぬなら、山の中でひっそりと首を吊った方がマシである。

(…あら…?)
そこまで考えて、樟葉ははたと気付いた。
(そういえば、ここから先は何処にどうやって避難するのかしら…?)

木の上といえど、流れ矢が飛んでくる可能性も無いとは言えない。
最近の武将は空中戦も繰り広げるらしいし。
それに彼女が立っている、いや、へたり込んでいる場所はかなり高い位置にある枝である。
人一倍臆病な樟葉が一人で木を伝って降りるのは、至難の業。そうすると、来た時と同じように彼に降ろして貰うしかない。
しかし、それではこの戦が終了するまで、ここで身を潜めていないといけないのだろうか。
樟葉は男に尋ねようと振り返り、固まった。

彼はピョイピョイと一人別の木々に飛び移り―――どう見ても、樟葉を置いて遠ざかって行っている。


「ち、ちちちょっとぉぉぉぉ!!??」
思わず大声で叫べば、夕焼け色の頭がぱっと振り返ったが、
「大声出したら見つかっちまうよ」
「どっ、何処行くんですか?!」
「俺様こう見えて忙しい身だから、後は自力でよろしく」
「は!?」
「運が良けりゃ矢にも当たらねぇし、侍にも見つからねぇし、木からも無事に降りられるよ」

そうしてヘラリと見せた笑みは、やはり何処までも軽薄で。

高く跳躍し、そのまま空の彼方へ消えていくその姿を樟葉はただ、呆然と見つめていた。


(…嘘でしょ?そんっ…だって、自力でどうにかなる範疇超えてない…?!)

腰は未だ抜けたままで、動こうにも動けない。
このままいくと、真正面から飛んで来る矢にももれなく当たるし、侍に見つかったら速攻斬られるか凌辱されるし、はたまた木から転落死しか道が無いような気がするのだが。

樟葉は声も無く、脱力した。
助けるなら最後まで助けていくのが、人情というものではないのか。
中途半端に手を出すくらいなら…いや、出して貰わなければ死んでいたが――ともかく。

「…か弱い小娘より戦が大事、か…」
乾いた笑いが洩れる。


一にも二にもの認識を改めるのは、とりあえず保留にしておこう。






勝者にとってはただの水。
弱者にとっては死への誘い。
戦地を満たすのは、赤い赤い血の雨だ。
誰もがそれを降らす事が出来る代わりに、いつでも己が降られる可能性を持っている。


「みなぎるぁぁぁぁあ!!」
炎のように真っ赤な衣を纏った甲斐の若虎・真田幸村は、自慢の獲物で敵の懐奥深くを突き刺した。
断末魔と大量の返り血を浴びた二槍は、主人の手の中でよりいっそうギラギラと輝く。
「この勝負、武田がいただいたぁっ!!」
大気を震わす若き武将の勝利の咆哮に、武田軍勢が一斉に沸き上がる。
「勝鬨を上げよ!!」

唸りを上げて二槍を振り回せば、斬られた空に刃に付着していた血が飛び散る。
再び沸き起こる猛々しい歓声を聞きながら、幸村は獲物を突き降ろした。
グサリと地面の抉られる特有の音が響き渡った後、彼は漸く深く息を吐き出す。

その隣に音も無く一つの影が降り立った。
「終わったね、旦那」
横たわる敵将の亡骸を眺め、口笛を鳴らす。

「…少し、てこずった」
幸村はどかりと腰を下ろし、歯がみした。

「まだだ…こんな事では、まだまだ親方様の役に立てんっ…!」
「まーたそれだ。ほら、肩の力抜いて!
たまには勝利の余韻に浸るとかしなさいよ、あんたは」
肩をほぐさんと伸びてくる手を振りほどいて、若き武将は憮然とした顔を向けた。
「馬鹿を言うな!」

睨まれた男はわざとらしく肩を竦める。

「別に馬鹿な事じゃないでしょうが…そんだけの腕がありゃ、旦那だって天下狙えるんじゃねぇの」
「俺ごときにそのような大それた力と資格は無い!
天下は、我等が親方様のような素晴らしきお方にこそ制されるべきなのだ!!」

誇らしげに胸を張る幸村にもういいやと溜息を吐けば、薄茶の瞳がぎろりと佐助を睨んだ。

「真田忍軍の長であるお前にも怠惰は許されんぞ。
親方様が天下を制するその日まで、この幸村倒れるわけにはいかぬ!
死ぬ気で付いて来い!」
「……俺様としては、後方支援に徹してた方が気楽なんですけどね」
「構わぬぞ。俺が呼べばすぐ来れる位置にいるならな」
「…あんた専ら前線担当じゃないの」
「常に細心の注意を払って耳を澄ませておけばいい」
「……やっぱ前方でいいや」


半目で白旗を上げれば、幸村は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「俺の背中を守れる者は佐助、お前しかおらぬからな」

佐助はぱちんと瞬いて、それからわざとらしく肩を竦め。


「…忍冥利に尽きるよ」

手に付いた血を迷彩服に擦り付け、佐助は今度こそ本当に笑った。




真田幸村は血で遊ぶ武家の子。赤い雨さえ、水だと言い切る。

猿飛佐助は血に飽きた忍。水を赤く染めても、心は動かない。


二人は主従関係にある。
幼い時分より比類無き主人であり、家臣であった。
ある者に言わせれば、それはもはや主従を越えた家族のようですらある、と。



一房だけ異様に伸びた明るい茶色の髪が、弾む様に揺れた。
「そういえば訊くのを忘れていた。かの者は無事か?」
「…かの者…?」
佐助は首を捻り、ややあって、ポンと手を打った。
「あの村人か。…そういやどうしてるかな?」
「おい。俺は安全な場所に避難させろと…」
「運がよければ安全さ」

ヘラリと笑った佐助に、幸村は頬を引きつらせた。






樟葉は必死に耐えていた。
戦の音はもう随分前から密やかなそれに変わっていたが、それでも時折聞こえる何かがズブリと刺さる音と断末魔が、樟葉の身体を木に縫い付けた。

残党狩りが始まっている。

まだ戦の気配は遠ざからない。
血生臭い風が、思考を白濁とさせていく。
泣き喚いて、出来るならいっそ気を失いたかったが、自身の歯の鳴る音がやたらと大きく脳に響いてくるせいで、意識はなかなか途切れてくれない。
故に、樟葉は泣きそうになるのを必死に耐えていた。
大声を上げて侍に見つかってしまえば、もっと恐ろしい事態になると解っていたからである。


――だが、現実は彼女に優しくなかった。


「…おい。気の上に何かいないか?」

侍の訝しげな声が木の下から聞こえ、樟葉はその場で大きく飛び上がる。
(…み…見つかった…?!い…いや、この高さと角度ならハッキリと確認までは出来ていない筈…!
ならこのまま息を潜めていれば…!)


だが、彼女は解っていなかった。
確かに木の下からは樟葉の一部分――尻である――しか見えていなかったが、それは遠目に見ても自然現象では有り得ない程にガタガタと震えていたのだ。
侍が二人、抜き身の刀を下げたまま樟葉のいる木の幹を蹴った。

「きゃあっ!?」
木がユサユサと揺れ、樟葉は思わず自身の乗っている枝に、悲鳴を上げてしがみつく。

「……女だ」
低い、何処かいやらしささえ感じる男の声と、ついで弓を絞る音が聞こえた。


「射落として、犯しちまおう」


元々蒼白かった樟葉の顔が、更に血の気を失う。
キリキリと弓がしなる音は、必死に張り詰めていた少女の最後の理性を奪い、生白い喉の奥で悲鳴が弾けた。
「や…いやぁ…!!やめて、嫌だ…っ!!」
けれど、自身の泣き声に混じって聞こえたのは酷薄な笑い声と、ヒュンと矢の放たれる残酷な音。

そして、



「何をしているのだあぁぁぁ!!」



空気を震わす大きな怒声と、豪という空気が斬られる音であった。


見開かれる樟葉の視線の先にあったのは、表情を固まらせた侍二人と、十字の槍を虚空に突き出した状態で止まった、赤い衣の侍。
「こ、これは幸村様…!!」

驚愕と焦りを全面に出した侍達は、我に返って一斉に地に平伏す。
宙に浮いた十字槍が弧を描き、赤い侍の肩に担ぐように乗せられた。
それと同時に、足元に舞っていた土煙が風に吹かれ、薄れていく。

樟葉は目を疑った。

そこには、真っ二つになった矢の残骸が、転がっていた。
断面は鋭く、まるで鋭利な刃物で斬られたようだ。

(……まさか…)
樟葉は涙でグシャグシャに濡れた顔のまま、呆然と赤を見つめた。
(…あの人が…槍で斬ったっていうの…?!)

では、自分は彼に救われたのか。あの絶対絶命の状況から。
身体中から、ドッと汗が吹き出る。
樟葉は震える掌で口を押さえた。

そうしなければ、心臓が口から飛び出そうだった。
(…し…死ぬかと思った…!!)


安堵の涙を流しながら、樟葉は木の下を見下ろした。

一度放たれた矢を途中で斬り落とすなど並の人間に出来る芸当ではない事は、樟葉にも解った。
加えて、敬称で呼ばれていた事や、平伏す侍達を前に威風堂々と佇む様は、まるで。
(……武将、みたい)

今迄に見た事は一度も無い。
たかが百姓にはそうそう御目通りすら叶わぬ存在である。
……かといって、樟葉がそれを願った事は無かったが。


幸村が眉根を寄せ、口を開く。
「戦えぬ百姓に…しかも女人に矢を向けるとは、武士にあるまじき愚行であるぞ!!」
「ゆ、幸村様…!!ご、ご、誤解にございます!」
慌てた侍が地に額を擦り付ける。

「そ、そうです!あれは…あれは、敵のくの一にございます!!」



――今、何か聞こえたような。



「う…嘘ばっかり――!!」
思わず飛び出た絶叫に、木の下の三人がギョッとこちらを見上げる。

「嘘!嘘!私はただの百姓だもの!」
「え、えぇい!!我等が偽りを申していると抜かすか小娘!!貴様は、我等を木の上から探っておったではないか!!」
「探ってなーいっ!」
「ただの百姓の娘がそんな高さまで自力で上れるものか!」
「自力じゃないものっ!なによ、貴方達忍とかそんなの一言も言ってなかったじゃない!!射落としておか…っ!!」


樟葉は顔を赤く染め、グッと口を噤んだ。
――言えない。


花も恥じらう乙女心など畑を耕す時に一緒に土に埋めてきた筈だったが、残念ながら残っていたようだ。
けれど、今は争乱の世。戦には乱捕りも付き物だ。

侍ならば察する事も出来る筈だが、


「……おか?」
さも不思議そうに、幸村は首を傾げた。


(…って、なんで伝わってないの?!)
樟葉が心中思い切り突っ込む。

脂汗を掻いていた侍二人はニヤリと笑い、勢い良くこちらを指差すと唾を飛ばさんばかりに叫び出した。
「おか!?なんだそれは?!そんな意味不明な言葉を発した覚えは無いわ!!」
「作り話をするとは、不届き千万!」

幸村がちらりとこちらを見上げた。樟葉はブンブンと首を振る。
「つっ作り話じゃない!!」
「ならば続きを言えぃ!」
「おか!?何だと言うのだ!言ってみぃ!」

(…なんて人達なの!!)

ググ…と再び口を噤み、震え始めた樟葉に幸村が眉を潜め、侍二人がニンマリと笑った時、


「犯す、でしょ?」


飄々とした声が樟葉の頭上から降った。
驚いて振り向く間も無く樟葉の身体がふわりと宙に浮き、悲鳴を上げる間も無く地面に降ろされる。
横抱きにされたまま視界に広がる迷彩柄に、樟葉は息を呑んだ。
「あなたは…!!」
佐助がヘラリと笑った。

「ほんとに運がいいね、アンタ」

侍達が顔色を変える。
「さ、猿飛様の…御知り合いで…!?」
「知り合いってゆーか」
「………佐助…!!」

口を開き掛けた佐助の耳に、地を這うような低い声が響いた。
ゆっくりと振り向いたいた先には、唐辛子のように真っ赤になった主の顔。
視界の端で、地に降ろされた樟葉が目を丸くするのが見えた。

「い、今言った事は、本当か…!!」
「知り合いってゆーか?」
「違う!!その一つ前!!その方らが言った言葉の続きをお前は答えたろう!!」
「…犯す?」
「なんと破廉恥なぁぁぁぁ!!」

大気を震わす大音量が辺りに突き抜け、樟葉は思いきりのけ反った。
次いで剛速で繰り出された鉄拳に二人の侍は殴り飛ばされ、

「ぐはぁっ!!」
「おぉぅっ!!」

各々の叫びを上げながら彼方へ吹っ飛んで行く。
遠くでドスンという鈍い音が聞こえ、彼等が地に落ちた事が解った。

樟葉は唖然と立ち尽くし、隣の佐助はさして気にもしない風に少女の肩を叩いた。

「侍は欲望に忠実な奴が多いから、気を付けた方がいいよ」
「…身動き出来ない場所に置いてった人がどの口でそれを言うですか。大体どう気を付けろとっ」
そもそもの元凶にも関わらず何処までも軽い口調に、樟葉がわなわなと拳を震わすが、睨まれた本人はヘラリと笑うだけ。

「基本だろ。溜まってる戦人には近付かない」
「…溜…っ!!」
「はっ…破廉恥であるぞ佐助ぇぇぇえ!!」

下世話な単語に樟葉が真っ赤になる後ろから、幸村の叫びが木霊した。
……いちいち女心を代弁してくれて助かる。
樟葉は拳を震わせ、佐助から目を逸らした。
この男はどうにも好かない。


「も…もういいですっ。あ、あの、御武家様っ…助けて下さりありがとうございました」
樟葉は幸村を見つめた。
「で、ですけど、あの、さっきの人達に事の確認とかとらなくて良かったんですか…一応…」
「…む?」
「いっいえ…そのぅ、いきなり殴り飛ばされてましたから…大丈夫だったのかな、と思いまして…」


真っ直ぐこちらを見つめる瞳は、樟葉の心臓には悪い。
自然、言葉が尻すぼみになっていく。伺うように見上げる視線の先で、
「偽りでござったのか!?」
幸村が険しい顔になる。樟葉はギョッし、両手と首をブンブンと振り、
「いっ…いぃえぇっ!!仏に誓って真実ですっ!!くの一でもないですっ!
この迷彩柄の人に木の上に置いて行かれただけです!」
大慌てで否定すれば、幸村の顔から険しさが引っ込み、再び赤くなる。忙しい男である。

「…あんたを避難させるよう言った人だよ」
佐助が耳元に顔を近付け、こっそり囁く。樟葉の目が見開かれた。

「こ、この人が?!」
そういえば、上からの命だと言っていたような。
とすれば、矢から救ってくれた事と馬に踏み潰されなくて済んだ事、自分を危機から二度も救ってくれたのは、この目の前の幸村という事だ。
いや、先程、侍共に鉄拳を見舞ってくれたのを数えると三度か。


「あ、あの…っ!助けてくれてありがとうござ…」
言い掛けた言葉は、振り向いた先の赤い顔にぶつかって途切れた。
「は、破廉恥でござる!!」
「はい…?」
「あーはいはい」

少女の呟きと、男の溜息が同時に零れた。
佐助は首を竦めて樟葉から身体を遠ざけ、けれど、幸村から受けるまなざしに如実に軽蔑の色を感じ取り、頬を引きつらせた。
「ちょっと旦那!?さっきの言葉、彼女に言ったのは俺じゃないからね?!」
「推理した佐助も破廉恥でござるぅ!!!」
「そりゃ理不尽てなもんでしょ!」


どうしたらよいのか解らず、目の前でギャンギャン騒ぐ戦人達を呆然と見ていた樟葉は、
(…あれ…この声…)
ふと、眉を顰めた。

この幸村という武士の馬鹿でかい声。
道の真ん中で、木の上で、身を竦ませながら幾度となく聞いた咆哮と。


(似てるような…)



じぃぃ…と凝視していると、二人がピタリと動きを止めた。
「…あ〜あ、旦那。彼女引いちゃったじゃない…」
「こ…これは失礼した!」
頬から赤みはひいたものの、それでもまだそこそこ赤い幸村が樟葉に慌てて向き直る。
ピシッと背筋を伸ばし、

「武人でもないお主を巻き込んでしまった事、お詫び申し上げる。
しかし、全ては我が主・武田信玄公が泰平の世を築く為。どうか御理解頂きたい!」

固い口調で言ってのけた。樟葉は表情を強張らせ、目の前の瞳を見つめる。
(泰平の世を築く為だから、怖い思いも我慢しろって事…?)

「もう戦は終了致した故、御安心なされよ」
真摯な瞳は彼の本気を物語っていて、樟葉は僅かに目を逸らした。


逸らした先で、佐助と目が合う。
………一体いつからこちらを見ていたのだろう。


「いかがした?」
幸村が心配げな声を出す。
「そなたは某が村までお送り致す。場所は何処でござるか?」
樟葉ははっとして幸村に視線を戻した。小さく首を振る。
「…いえ、村は十日前に戦火に巻き込まれて……もう無いんです」
「なんと!」
「今、住んでる場所は?」
「…えぇと…野営生活だったので…」
「なんと!!」
「どうすんの旦那」

薄茶の瞳が、しばし思案するように宙を見つめ、何か閃いたようにぱっと顔を明るくした。

「甲斐に住む気はあるでござるか!?」
「甲斐?…というと、武田…」
「おお!知っておるなら話が早い!佐助!お前の馬に乗せてやってくれ!さぁ、帰還しようぞ!!」

呆然と立ち尽くす樟葉を残し、幸村は轟音を上げて何処かへ駆けて行く。


「…私、まだ行くとか言ってないんですけど……御武家様って皆こうなんですか…?」
「旦那は特別」

「私……まだ名乗ってもいないんですけど……あの人って…こうやっていつも百姓とかを助けたりしてるんですか?」
「いや、あんたは特別」
佐助が樟葉を覗き込んだ。


「未だに腰抜かしたまんまのあんたを、此の場に置いていけるような人じゃないからね」

へらりと笑う佐助を見て、樟葉は言葉を無くす。
信じられないように目を大きく見開かせ、目線を前方に戻した。
視線の遥か先に先程まであった若武者の赤が、チラチラと舞う。

三度も命を救われた上、どうやら今度は身の寄せ場所を紹介してくれるらしい。

(…戦人にも………優しい人がいるの?)


澄んだ硝子玉のような薄茶の瞳が、脳裏から離れない。

「……ゆきむら、様…」
我知らず、呟いていた。


はっとして口元を抑えると、隣から視線を感じた。
振り向けば、佐助が目を細めてこちらを見ていた。
温度を感じない、乾いた目だ。

息を呑む葛葉に、猫が笑うような囁きが落ちた。


「虎の若子に惚れても、噛み殺されるだけだぜ。お嬢さん」



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