真っ直ぐな瞳が纏う影に、ぎしりと胸が軋んでいく。
『月の船 ―宵待ち―』
荘厳な王宮や、のどかな田舎町の空と同じように、
漆黒の海辺にも、白金色の月はその姿を覗かせている。
カガリは、白くゆったりとしたワンピースを身に着けた姿で、それを仰ぎ見ていた。
金糸の髪が柔らかな月の光をそのままに受け、優しく煌めいている。
自分の国家元首としての役割は、決して簡単なものではないことは理解していたし、
プラントとの停戦協定が結ばれた後とはいえ、戦争の傷跡は生易しいものではなかった。
自棄になって放り出すつもりも毛頭なかったが、それでも一向に進まない仕事の山に、
流石に彼女の焦燥感もピークに達していた。
(今日も疲れたなぁ・・・)
天を仰いだままで目を閉じる。
こんな時に、煩わしい護衛者が側に居ないのはせめてもの救いだ。
(・・・・・・・・アスランなら、いくらでも傍にいて平気だけど)
1年前であれば常に傍にあった穏やかな翡翠は・・・今は遠い。
思い出しても胸が痛むだけの幻が風化するのには、どれくらいの時間が必要なのか・・・未だ彼女には鮮明すぎた。
宇宙に戻っていったかつての恋人には、もうずっと会っていない。
お互いの夢と目的の為、あえて離れた。
離別か決別か、この心にすらわからない。
曖昧な別れ、確実に遠くなった距離。
それは、彼女が望んだ事だった。
だが、紅い石を嵌めた銀の輪は、今もまだ彼女の薬指に嵌ったまま。
(・・・勝手に想うぶんには、構いやしないよな・・・?)
カガリは琥珀の瞳を細め、再びぶらぶらと歩き出した。
さくり、さくり、と砂が鳴る。
カガリは、ふと前方に誰かがいるのに気付いた。
闇に溶け込む黒い髪。
夜よりも深い黒い服。
幼い輪郭が、月明かりに照らされて仄かに浮かび上がる。
ふと、その人物がこちらを振り向いた。
カガリは、思わず足を止め固まった。
向かう紅い瞳も、驚愕に見開かれる。
「シン・・・!」
「アスハ・・・!」
二人はお互いを凝視したまま、黙ってその場に立ち尽くした。
まさか、憎んだ相手に。
まさか、苛まれた相手に。
再び会う事があろうとは。
ひどく長い時間のように思えた。
カガリが、居心地悪そうに瞳を揺らし、
「ひ・・・久しぶりだな、シン。元気にしていたか・・・?」
伺うようにこちらを見た。
「キラと会ったんだってな。その・・・あいつに聞いたよ」
双子の弟からは、和解したとは聞いているが。
それでもシンが自分に柔和な態度をとるとは、想像出来なかった。
カガリは、冷たい汗が流れるのを感じた。
その時シンは、今までにない混乱で完全に硬直していた。
(・・・最後にこいつに会ったのはいつだった・・・?)
彼女は自分にとって、忘れたくとも忘れられない相手。
憎しみを生きる糧にしていた自分の、生きる総てであったのだから。
シンは、ぼんやりと頭を巡らす。
(・・・俺、オーブを滅ぼしてやるとか言わなかったっけ、こいつに・・・・・。
その後、こいつの搭乗機を落とそうとしたし、
オーブ艦隊に至っては完全に沈めた。
最後にはオーブに侵攻して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・滅ぼそうと・・・・・・・・・・)
シンは、苦渋に顔を歪ませた。
一言も言葉を発することのない男に、カガリはいっそう不安になった。
そもそも、彼に対しては家族を奪った負い目がある。
望んだ事ではなかったが、結果として事実である事に変わりはない。
カガリは、じっと息を潜めているシンの気配を感じながら一度目を閉じ、意を決して歩み寄った。
見上げた先の深紅は、驚いたように目を瞬かせ、たじろぐ。
不安と緊張を宿した、頼りない表情。
ぱくぱくと開かれ、それでも僅かな音も紡ぎそうにない唇。
かつて自分の罪を糾弾した強い眼差しは、映す事を恐れるように逸らされたまま。
恐る恐る腕を伸ばし、目を合わせようともしないシンの頬に触れてみた。
「・・・っ!!」
ばっと瞳がカガリを凝視し、次の瞬間には腕を振り解かれる。
「なっ、なっ、なにするんだよ!?」
真っ赤になって叫ぶシンに、カガリはたじろいで、
「ご、ごめん・・・!その、ちょっと間がもたないな、と思って・・・」
「それでなんでそういう行動に出るんだよ!!」
「ご、ごめん!!」
慌てて謝り倒した。
シンは、肩の力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「シ、シン・・・?」
カガリは、心配そうに顔を覗き込んだ。
距離の近くなった金色の頭をちらりと一瞥し、
「・・・座れば?」
「えっ?」
「疲れるだろ」
なにがどう疲れるんだ、などと自分自身で突っ込みながら出来るだけ無表情に言った。
カガリは暫く戸惑っていたが、おずおずとシンの隣に座り込み、
「・・・ライトも持たずに、たった一人でこんな所で何してるんだよ?あんた」
眉を顰めて不機嫌そうに響く声に、決まり悪そうに身じろいだ。
「時々来るんだ。その、息抜きに。ほんと時々」
言葉を選びながら、丁寧に紡ぐ女を一瞥する。
「それに、ライトなんていらないよ。月明かりだけで十分じゃないか?シンも」
「・・・まぁ、そうだね」
踏み出す足が行き先を伝えてくれる。
頭で考えなくても、この国の空気を感じ、大地を感じる。
標や灯火など無粋なのだ、この地で生まれ育った者にとっては。
「シンは、今までどうしてたんだ?今日は一人か?」
一瞬、シンが逡巡したように見え、カガリは首を傾げたが、
「ルナと・・・・一緒に暮らしてる。さっきまで一緒だったけど、先に帰った」
彼の言葉にぱっと顔を綻ばし、身を乗り出した。
「そうか!それはいい事だな!一人で暮らすより二人の方が楽しいもんなっ!」
シンの顔が強張る。
だが、カガリはその変化に気付かずに、ニコニコと言葉を続けた。
「メイリンは一緒じゃないのか?三人だともっと楽しく暮らせると思うぞ!」
シンは己の内で燻ぶっていた火が、じわじわと燃え始めるのを感じた。
険しい顔つきになったシンに、カガリは漸く気付いた。
シンは、ゆっくりと固まった相手に目線を合わし、初めてその顔に笑みを浮かべた。
「メイリンは、アスランとプラントだ。知ってるくせになんで聞く?」
どうしようもなく乾き切った、救いのない微笑がカガリの胸を刺す。
「俺とルナが二人でいる事が、嬉しいのか?
あんたはアスランと二人でいられなかったから?」
カガリは顔を強張らせた。
月が陰り、あたりは漆黒の闇になる。
そのどこか虚ろで、呑み込まれそうな儚い琥珀に、シンはどうしようもなく苛立ち、
「・・・やっぱり、あんたニセモノだ・・・!」
目を逸らして、吐き捨てた。
(ニセモノ・・・?
ああ、そうか。シンはまだ私を認めていないという事か?
・・・・・・・・・・そりゃそうだよな)
カガリは、寂しげな笑みを浮かべ、
「アスランの事は関係ない。
メイリンの事は・・・噂で聞いてただけで、その、本当かどうかわからなかったから・・・」
(だから、本当じゃない方にかけてたわけか)
シンは口元を歪めた。
何故だろう。
今はもう何ともないと思ってたのに、この女と話していると翡翠を思い出して、胸が軋む。
「お前がルナマリアと二人で暮らしてるなら、とても嬉しいんだ。
お前には幸せになって貰いたい・・・傲慢に聞こえるかもしれないが」
「よくわかってるじゃないか。
どうせ、あんたはそう言って楽になりたいだけだ!
俺の幸せだって?!
自分の罪から目を背けたいんだろ!?
そうしないと心が潰されるほど、弱いくせに!!あんたは!!」
急に声を荒げたシンに、カガリは怯えた。
「違う!私は・・・・っ」
「アスランな、プラントに発つ時、俺達に挨拶にきたよ。
なんて言ったと思う?
カガリを頼むって言ったんだ!!」
カガリは今度こそ完全に硬直した。
琥珀がじわりと滲む。
その姿にさえ、シンは怒りを覚えた。
「アスランはあんたと共に歩みたかった筈だ!
そんなの俺にだってわかったさ!!
あんただってそうだろ!?
なのになんで捨てたっ!!」
ポロポロと零れる涙が、青白い砂浜に吸い込まれていく。
弱弱しく横に揺られる金色の頭。
「そんなんじゃない、そんなんじゃ・・・・っ」
「先に捨てられたのは自分だからか!?あの人がミネルバに来たからか?!」
「違う、違う・・・・!」
震える女を見下ろして、
シンは自分が何故か泣きたい気持ちになっている事に気付いた。
「あんたはいつだって・・・捨ててばかりだ・・・」
自分の声が震えているのがわかる。
自分が本当に憎いのは、琥珀なのか、翡翠なのか。
国の平和を守る為に、
自分の望みを、大切な者の願いを切り捨てる。
愛する男を失う事で、己を強くしようとする。
それが、国を支える元首としての務めだと頑なに信じて。
「・・・仕方、ないじゃないかっ・・・!」
涙の滲む琥珀が、深紅を睨み上げた。
平和の国のお姫様を、迎えにくる白馬の王子はいない。
姫自ら王子を拒絶し、籠に閉じ篭もるからだ。
真っ直ぐな瞳が纏う影に、ぎしりと胸が軋んでいく。
どんな人生を歩もうが、そんなものはそいつの自由だ。
誰が口を挟むことでもない。
しかし、理不尽だとはわかっていても、
変わって欲しくないと願うものがある。
過去、シンにとってカガリ・ユラ・アスハは光だった。
失いたくない陽光、紛れもなくその一つだった。
家族で手を振った、前代表とその娘のパレードは、今もまだ覚えている。
光を信じる事が出来た、遠い、遠い昔の話だ。
(俺はやっぱり、この女が憎いのかもしれない)
愛しているのに瞳を逸らし、愛されているのにその手を払う。
泣きながら独りになろうとする、決して完璧な光にはなれなかった女を。
「仕方ないだろう!!
他にどうしろってんだ!?
アスランが好きだ!離れたくなんてなかったさ!!」
憎い。憎い。
「でも国の方が大事なんだ!!
お父様のような立派な獅子になって、オーブの民を今度こそ幸せにしたいんだ!
・・・・畜生、それがなんだってんだ!!」
憎い。愛しい。
「お前にだって、本当に幸せになって貰いたいんだ!!
幸せに笑ってるお前を見て、私が幸せを感じたら悪いのかよ!!」
愛しい。愛しい。
雲の合間から顔を出した白金の月が、肩で息をするカガリを照らす。
柔らかな金糸の髪が、光を受け煌めく。
だが、月の光は女の真の姿を眩ませる事を知っている。
男は静かにゆっくりと、両手を広げた。
不意に目の前に落ちた影に、カガリは目を上げた。
月の光を遮るように黒が視界一杯に広がり、
見開かれる琥珀に、深紅が重なる。
唇に吐息がかかった。
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