暗闇の中光り輝くものあらば、それこそが。


『月の船 ―空の鏡―』


ルナマリアはアパートに着いてからずっと、テーブルにもたれ掛かっていた。
そのまま目だけをぐるりと動かして、部屋を見渡す。

淡いクリーム色の壁紙。
ローアンバーの戸棚。
コーラルレッドのカーテンには、ホワイトとオーバージーンのボーダーが3:1の比率で走る。
透き通った花瓶には、イエローとオレンジのマーガレットがカスミソウと共に咲き乱れる。

そして、オフホワイトのカウンターには御揃いのマグカップがふたつ。

(私とシンのお家・・・)
ぼんやりと思う。
(ここでずっと二人で過ごせるとか思ってたりしたけど、なかなかどうして・・・・上手くいかないもんねぇ・・・)
軽く苦笑してから、勢いをつけて起き上がる。
両手を上に突き出し、思い切り伸びをして、
「なーんて考えても仕方ないか!今更今更!」
相手に好きな人がいるからと諦められるくらいなら、そんなもの本当の恋じゃない。
(逆境?失恋?
・・・どんとこいってのよ!)
壁は乗り越えられる者の前にしか、出現しない。
それは彼女の信条でもある。
「こちとらその程度で根を上げるような、ヤワな女じゃないんだからね!!」



月が再び翳っていく。
カガリは動く事さえ出来なかった。
抱き締められた身体。
唇に残る柔らかな感触。
未だ己に向けられる深紅の瞳に、ただ立ち尽くした。

シンもまた黙ったままだった。
暫く微動だにしなかったかと思うと、のろのろとカガリから腕を放し、ゆっくりと眉間を押さえ、力無く頭を左右に振る。
カガリは目を見開き、

「・・・・・・・・なにやってるんだ俺は・・・・・」
「それはこっちのセリフだぁ――――――っっ!!!」

心底不機嫌に呟かれた言葉に、思わず絶叫を上げた。


「お前・・・お前な!
いくらなんでもどういうつもりだ!?」
真っ赤な顔で拳を握り喚き散らす女に見向きもせず、シンは呻く。
「馬鹿じゃないのか?
よりにもよってこんなヤツに・・・!
しかも今更なんで気付くんだよ、俺は・・・っ!!」
「なにブツブツ言ってるんだよ!!」
「うるさいっ!!ちょっと黙ってろ!!」
「なっ・・・!?」
あまりの言い草に口があんぐりと開く。
(こっ・・・こいつって・・・!!)
前から自分に対してはよくキレる奴だとは思っていたが、流石に今この場面でキレられるいわれはない。

シンは相変わらず一人で何やら唸っていたが、
睨み殺す勢いで此方を凝視するカガリの視線に気が付いて、
流石に目を逸らし、ややあって、
「・・・・・謝らないからな、俺は」
口を尖らした。
「なんだとぉ!?
謝れ!二回以上謝れ!!
私はっ・・・私はお前なんかにキスされる覚えはないっ!!」

シンがさっと表情を変えた。
カガリはどきっとする。
「な・・・なんだよ・・・?」
彼には刺々しい態度を取られた事しか無かった為、思わず動揺する。
(なんで、そんな、傷付いたような目をするんだ・・・?)
これではまるで、自分が悪者のようではないか。
カガリはうろたえて、
「・・・・・い、言い過ぎた・・・のか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめん・・・・・・・・」
とりあえず頭を下げた。

「・・・・・」
しかし、シンからの反応は無い。
カガリは頭を下げたまま、首を傾げ、ゆっくりとシンを伺った。
そこにはシンの呆れたような顔。
「・・・・・・・・・・・・・・あんたって・・・・・・・・・・・・・・」
カガリは顔を引きつらせた。
「・・・おまえ・・・!
今の今まで拗ねた顔してたくせに!!」
傷付いたように見えたのは錯覚か。
やはり罪悪感など感じてやるのではなかった。
そもそも何故、被害者である自分が謝らなければならないのだ。
一分前の自分を張り倒したい。

わなわな震えるカガリの耳に、小さく笑い声が聞こえた。
ぎろりと睨むと、シンはわざとらしく肩を竦めて、
「じゃ、俺もやり過ぎたよ」
笑いを含んだ声のまま言った。
カガリは、むすっとしたまま、
「なんだよ、もう・・・!」
ぶつぶつと文句を言っていたが、暫くして疲れたのか肩を落とし、
「・・・・・もういい。忘れてやる・・・・」
言った。
瞬間、シンが弾かれたように叫ぶ。

「だっ・・・駄目だ!忘れるな!!」


ずっと厭わしかった。
ずっと煩わしかった。
だが同時に、
慕わしくもあった。

抜けない棘。
打ち付けられた楔。
消えない夢。
褪せない光――――例えそれが、幻だったとしても。


(認めたくない。
認めたくはない・・・・が。

俺は確かにこの女を――――・・・・・)


カガリはぽかんとした顔で、此方を見ている。
シンはがんがんと痛む頭を抱えた。
(・・・もうどうでもいい・・・!
覚悟を決めろ俺!!
今、言わなきゃきっと一生言う機会は来ない・・・っ!!)



熱い眼差しと、強く握り締められて白くなった拳が、カガリの動悸を速めた。
目の前からは痛いほどの緊張が伝わってくる。
(なにを・・・言う気だ・・・?)
こんな目をした男を見た事があった。



『きみは俺が守る』

思い出すのは愛しい翡翠。


瞬間、カガリの背に震えが走った。
(まさか・・・だよな・・・?)
心臓がばくばくと音を立てて走り出す。
シンがばっと口を開いた。

「俺はあんたがっ・・・・!!」


その言葉が音となり耳に届く前に、カガリは目をぎゅっとつむった。
勢い良く両手を胸の前で握り締める。


辺りは未だ暗闇のまま。
届くはずだった言葉は、しかし、カガリの耳には届かなかった。
恐る恐る目を向ける先には、ただ一点を凝視したまま動かない深紅の瞳があった。
シンの唇が震えるのがわかる。

「ゆび・・・わ・・・?」


美しいワインレッドの石。
繊細な銀の輪っか。
左手の薬指。

シンは瞬時にそれが何であるか悟った。
そして、それを贈ったのが誰であるのかも。
・・・・・・・・そんな者、ひとりしかいなかった。


縋るように指輪に触れる細く白い指に眩暈がする。
(・・・なんだよ・・・)
膝の力がみるみる抜けて、シンは砂の上に崩れ落ちた。

「それは・・・捨ててないのかよ・・・・・?」


へたり込んだシンに驚いて、カガリが駆け寄る。
覗き込んだ先の黒い頭が、僅かに震えているのを見てとり、酷く胸が痛んだ。
(ああ、やはりシンは・・・・)
傷付けるとわかっていても、言わなければならなかった。
シンに、真実を隠す事はもうしたくない。

「・・・本当の本当は・・・・アスランがプラントに発つ時に返そうと思ってたんだ。
でも・・・・出来なかった・・・・」
ぽつぽつと落ちる苦しげな女の声が、残酷に響く。

シンは祈った。
月は未だ隠れたまま。
どうか今だけは姿を現し、この女から言葉を奪ってくれと。


「今もやっぱり好きだから。
どうしても・・・手放したくなかったんだ・・・


どんな事があってもあいつとの思い出があれば、きっと前を向いていけるから・・・・・」


言葉は切り裂かれるような痛みを伴い、シンの胸に突き刺さった。
どうしようもない思いに、口元が歪むのを感じる。
ゆるゆると顔を上げると、カガリが目を大きく見開いた。

「・・・シン」
声が咽喉に引っ掛かり、掠れた音が漏れ出る。
目の前の深紅は、涙に染まっていた。
今までに見た事がないほど、くしゃくしゃに歪んでいた。


「俺・・・俺・・・あんたが・・・」

そして、また言葉は途切れる。


(つらい。
つらいよ。
月よ、助けて。
真実を俺から覆い隠して。

叶わない夢だなんて知りたくないんだ)


そして、涙がついに零れた時、シンの視界は白一色に染まった。
それが女の衣服だと気付いたのは、すぐだった。
呆然とする深紅が、琥珀を見上げる。
カガリはシンの頭を優しく撫で、

「・・・ありがとう」
泣きそうに微笑んだ。

「ごめんな・・・」



漆黒の天の下、星々は姿を隠し、月もまた闇に溶けていた。

だが、シンは見た。

光も何も無い深い深い闇夜の中で
一筋の星が生まれる瞬間を。


たった一瞬。
だが、確かに一瞬。


カガリ・ユラ・アスハは闇に煌めく星のような目で、自分を見たのだ。


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