埋まった距離が、開戦の狼煙を上げた。

『B・13』



日に日に生い茂る草木。燦々と照り付ける太陽。咲き乱れる花。騒ぎ出す虫。
(…鬱陶しい)
廊下をヨタヨタと歩きながら、フレイは眉を歪めた。
一年の中で、夏ほど人を苛立たせる季節は無い。

「あぁ〜〜〜〜…」
職員室に入るなりエアコンの真下に走り込んだフレイは、しゃがれた声で呻いた。
「……生き返るわぁぁ……」
「おはよ、フレイ。今日35度ですって」
彼女から一メートル程離れた席に座った親友が、頬杖を付いたまま溜息混じりに笑う。

夏は解放の季節だという者もいるが、それは南の島でバカンスにしけこむ連中にのみ与えられる幸せな錯覚であり、日々コンクリートの建物で仕事に追われる会社員には、この際全く関係が無い。
解放されるのは、愚痴と財布の紐だけだ。
フレイはそう思っている。


「ほんと?!どうりで…!」
梅雨のあのベタベタした空気も嫌いだが、暑いのはもっと許せない。
どちらかというと短気な性格が、それでも普段は極力抑え込んでいるのに、軒並みだだ漏れになる気がするのだ。
人の目などどうでもいいと言いたい所だが、教員職である以上生徒の前では暑さにも動じない大人の女を演じなければならない。
それに、とフレイは一人ごちる。

今の自分にとって、気になるのは生徒の目だけではない。

フレイは忌々しげに眉を歪め、
(……ベタベタする)
職員室にまだ男性教諭がいないのを確かめる。
次いで、ワイシャツを第二ボタンまで外し、
「あぁぁぁ……」
胸の谷間に冷風を直接当て始めた。ミリアリアが思わず飲んでいた茶を噴出す。
「ちょっとはしたないわよ!!」
「固い事言わないでよ。誰か来たら瞬速でボタン止めるから」
頭上で一つに結われた薔薇色の髪が冷風になびき、暑さでほてったピンク色のうなじが艶かしく覗いた。
ミリアリアが眉間を抑えた。

「…瞬速って…あんたねぇ…相手も瞬速で入ってきたらどうすんのよ!」
「それを上回る瞬速を出せばいーじゃない」
「あんたは何処のスーパーマン!?」
額に手を当てて天を仰ぎ、盛大な溜息を付き、けれど、ややあって意味ありげな瞳を寄越した。


「……彼に見られても知らないから」


バッグからコンパクトを取り出そうとしていた手が、思わずそれを取り落とす。
声が上擦った。
「な…なによ、それ?」
「とぼけちゃって」
ミリアリアがにまりと笑んだ。
「何年の付き合いだと思ってるのよ。見え見えよ。
まぁ、彼は気付いてないみたいだけど?」
「ちっ、違うわよ!私は別にキラなんか…!」

言い掛けて、口を噤む。
しかし、遅い。
そして、とてつもなく間抜けな発言をしてしまった。

目の前の親友が笑みを深くしたのを見て取り、フレイは汗をダラリと流した。
「私は、キラだなんて一言も言ってないわよ?」


赤くなった自身の顔が、多分どんな言葉よりも肯定を示していて。



キラとの付き合いは長い。

一見穏やかな彼が、実は猫っかぶりで打算的な事もとっくの昔から知っている。
けれど、男は優しいだけでは失格だと思っているフレイにとって、それは大した問題ではない。
しかもキラはフレイに対しては特に優しく接していた為、嫌な印象はまるで無かった。

ただ、それは所詮いい友人としてであり、恋愛対象としてではなかったのである――今までは。


(あの日、までは)



フレイはコンパクトを拾い、ミリアリアに背を向けてメイク直しを始めた。
背後で笑いを含んだ「ごめんごめん。からかい過ぎたわ」という言葉が掛かったが、完全に無視を決め込む。

こういう分野でからかわれるのはごめんだ。
からかう側に立ってこそ本来の自分であるのに、やりにくいったらない。
そういえば、色恋沙汰に鼻が利く筈のフレイにも、昔からミリアリアに関してだけはまるで読めなかった事を思い出す。
自分だけが弱味を握られたようだと歯がみすれば、「耳赤いわよ」と声が掛かった。
無論、黙殺した。



先におかしくなったのはキラだった。
ある時から急に挙動不審になり、物憂げな表情をするようになり、時折何かを呻いたり、何かを振り払うように壁に頭を打ち付けたりするようになった。

これが気にせずにいられようか。

この時点では面白半分心配半分だったが、ともかく視線は釘付けになった。
自他共に呼称しているスマイル先生のスマイルが、明らかに質が変わったのだ。
はっきり言うなら、うさん臭くなったというか。

勿論、今迄のスマイルが総て本心からのものでない事は知っているが、それでもフレイの知る彼は人より数段嘘が上手かったから、このあからさまな笑顔の劣化には少々驚いた。
少し前まで無邪気にじゃれついていた生徒達の数も若干…いや、かなり減ったように思う。
まさか授業中に何かやらかしたのだろうか。
しかし、理性的で計画的な彼がこの時期に失態を冒すとは考えにくい。
彼自身普段から、発つ鳥後を濁さずと言っていた。

そこまで考えて、フレイはふと気付いた。
キラの様子がおかしくなったのはあの日―――カガリと初めて授業をした直後からだと。



(…何かあったのかなって思うじゃない?普通)
フレイは無言になって、バフバフとパウダーを叩き始める。
思えば、あの時から急にキラの事が気になり始めたのだ。

ずっと昔から変わらなかった彼を変えられてしまった事に対する、不安。それから嫉妬。



「おはようございます」
ガラッと戸の開く音と共に、女性にしてはハスキーな声が響いた。

(…人生初の嫉妬の相手が、可愛い後輩だなんて。
ほんと自分が嫌になるわ…)

フレイは複雑な笑みを浮かべ、振り向く。
「おはよ、カガリ」
そうして、瞬速とは程遠い鈍さで胸元のボタンを止めたのだった。




朝のミーティングが終わり、カガリは小さく息を付いた。
あの日、アスランと話した屋上での一件から早一月が経過している。
けれど、彼が置いていった問いの答えは未だ出ず、毎夜眠れぬ日々が続いていた。


『どうせあんたには答えられないだろう?』


そう笑った翡翠の瞳が、ずっと頭から離れない。
(無償の愛が何なのか、なんて…)

愛は無償で当然だ。
見返りなどとんでもない。
自己犠牲も厭わないからこそ、愛なのだ。
カガリはそう信じている。

だが、何故とその理由を問われたら答えに窮す。


(だって、理屈じゃないんだ)
説明など出来る筈も無い。
カガリは長く溜息を吐き出した。
酸素を抜かれた肺が、鈍く痛む。
彼が吐き出した過去と負った傷が、ジクジクと頭の中で疼いた。
(……救いたい)


アスランがした仕打ちを忘れたわけではない。
けれど、怒りより強い思いが生まれてしまったのだ。

(あいつを、救いたい)
これは同情なのかもしれないけれど。
(あいつが誰かを本気で好きになってくれたら、一番いいんだけど…)


一人重苦しい溜息を吐きまくる後輩の様子に流石に気付いたミリアリアが、首を傾げた。
「朝からお疲れ?カガリ」
「…ちょっと…寝不足で」
「睡眠はちゃんと取りなさいよ?教師が授業中に欠伸なんか駄目だからね」
「すいません…」
ミリアリアは眉を顰めた。
振り向き素直に謝るその声には、いつもの張りが無い。

(…いえ、違うわね…)
目の前の後輩を観察しながら、ミリアリアは頭の中で訂正した。
いつものというよりは、以前の、が正しい。
(…いつからかしら?なんかずっと元気がないのよね…)
琥珀の瞳は疲れを宿し澱んでいて、その下には隈がある。
ここ一ヶ月で、カガリのキャラが変わりつつあるのは気のせいだろうか。
無鉄砲で単純で、血の気が多く、図太かった若さ溢れる新米教師が、見るも無残な『ただの疲れている人』だ。

じっとカガリを伺っていたフレイもまた眉を顰め、椅子ごと側に滑り寄ってくる。
「ちょっとカガリ…あんた、今日何時間寝たの?」
キラの事で多少引っ掛かる思いがあったとしても、カガリはフレイにとって面倒を見るべき後輩には変わりない。
手の掛かる、それでも可愛い後輩である事には。

「…えーと…」
カガリは目線を泳がせ、
「二時間…かなぁ…」
「にっ、二時間!?なんで!?」
「色々考えてたら、寝付けなくなっちゃって」
「〜〜馬鹿っ!」
思わず怒鳴ったフレイの剣幕に、首を竦める。
「ただでさえこんな暑い日に…!!倒れたりしたらどうするの?!
夏を甘く見るんじゃないわよ!!あんた体育教師でしょ?!
私達より沢山身体動かさなきゃいけないでしょうが!!」
「お、落ち着いて!フレイ!」

ヒートアップし始めたフレイをミリアリアが宥める。
フレイはハッとして、決まり悪そうに目を逸らした。
「…一限目授業あるの?」
ミリアリアが、心配げに琥珀の瞳を覗き込んだ。
「…いえ。空きですけど」
「なら、保健室で休んできなさいよ。一時間だけでも全然違うから」

それもありかもと一瞬考え、けれど、脳裏に落ちた桜色の保険医の影に琥珀が曇った。

「…や、やっぱりいいです」
「目の下に濃い隈つけて何言ってんの!」
「そうよ、カガリ。今日3―Bもあるんでしょ?
聞いたわよ。そのクラスだけ半端じゃなくハイテンションでやってるって。
ザラJr.の手前、何か色々考えてやってるんでしょうけど?今のその体調でこなせるの?」

カガリは目線を泳がせた。
因みに、ハイテンションなのは事実である。
答えを用意出来ていない居心地の悪さをアスランに悟らせない為に、始終授業に没頭しているのだ。
勿論、終わった後はクタクタだが。


「私も行ってあげるから!」
「ちょっ…アルスター先生…!」
あの保険医の側でなど眠る気にはなれない。
直接何かをされたわけではないが、彼女はBの餌食となった自分に対して何の慰めもしなかったばかりか、全ては目を付けられたカガリの責任だと斬って捨てたのである。
その非情さ、非常識さに言葉を失った記憶は未だ新しい。
けれど、そこまで考えてカガリははたと気付いた。


(非常識だからこそ…私では考え付かない答が出る…か?)


そうだ。
あのラクスなら、無償の愛をどう捉えるのだろうか。
どちらかというと、アスランに近い属性に思える彼女ならではの答は、きっと自分と同じではない筈だ。
ならば。

(迷った時こそ、自分と異質な人間の意見を聞く・・・!!そうだよな、シン!)

胸の中の幼馴染に力強く呼びかける。
そうとも。
仮にも教師だし、話し合いは基本姿勢でなければならないだろう。
・・・・例え、本当は物凄く憂鬱だろうとも。

カガリはキュッと唇を噛み締めて、覚悟を決めた。
引っ張り続ける先輩二人の背中越しに、保険室の扉が見えた。






消毒液の独特の匂いが充満した部屋は、清潔だが冷たい感じがする。

消毒液を傷口に付けた時の染みる感覚を思い出すからかもしれない。
いっそ痛みすら伴うあの感じが、カガリは苦手だ。
殺菌なのだから菌にだけ痛みを与えればいいのに、人間にも苦痛を与えるならそれは医療薬ではないだろう。
毒の間違いだ。
それから、苦手な理由はもう一つ。

(こういう所って無菌室っぽくて、汚い物を一切拒絶すると言われてる感じがするんだよな…)
鼻白む思いと共に沸くのは、僅かな萎縮。


「睡眠不足はお肌の天敵ですわよ。
折角お若く綺麗でいらっしゃるんですもの。勿体ないですわ」
柔らかい鈴の音を思わせる声が、耳に届いた。
カガリはベッドに横たわったまま、机に向かって何やら作業をしているラクスの横顔を見つめる。
フレイとミリアリアはもういない。
カガリをベッドに寝かせるとラクスと一言二言話し、出て行ってしまった。

カガリはゆっくりと上体を起こし、ベッドに座る。
(…ここで話すのは二回目だな)

ベッドの軋む音に、ラクスが振り向いた。
その柔らかで、けれど、隙のない笑顔にやはりアスランと同じものを覚える。

「まぁ、眠れませんの?」
「いえ…貴女と少しお話したいんです」
緊張のあまり何処か声が硬くなったのかもしれない。
ラクスが片眉を僅かに上げたのが解った。
「まぁ…何でしょう?
滅多にお会い出来ないアスハ先生のお願いなら、喜んでお聞き致しますわ。
この機会に是非、親睦を深めたいものですわね」

滅多に会わなかったのは、カガリが意図的に避けていたからである。
ひょっとして、あてこすられているのではなかろうか。

椅子から立ち上がり、ゆったりとした足取りで歩み寄るラクスの目を、カガリは見上げた。
凛とした冷ややかな、空色の瞳。

一体、この自分が何処まで本音を引き出せるだろうか。


カガリは口を開いた。
「……人を愛する事について、お聞きしたい」
ラクスが、歩みを止めた。
空色の瞳が次第にパチパチと瞬き始め、ゆっくりとカガリを見下ろす。
けれど、返答は無い。


親睦を深めようと言った保険医の不自然な沈黙に、カガリは汗が落ちるのを感じた。
もう少し言葉を選ぶべきだったか。
というか、ちょっとロマンチックが行き過ぎた女に思われていたら、どうしよう。
いや、だが、しかし。
今更後に引けはしない。

引き攣りながら、カガリは言葉を搾り出す。
「無償の愛とは何だと思いますか?」


その時、ラクスの目が僅かに揺れた気がした。
しかし、再び沈黙が落ちる。


ああ、もう少し変化球の練習をしておくべきだったなとカガリが遠い目をし始めた頃、

「……それは、どなたかに尋ねられたんですの?」
無機質な鈴の音が響いた。


思わずラクスをばっと見る。
ニ歩程離れた不自然な位置で佇んでいるその空色の瞳が、再び揺れた。

カガリは、思わず浮かびそうになった笑みを押し殺す。
(―――食いついた!!)


ラクスは微笑みながら尋ねる。
「Bですか?」
けれど、止まったまま一歩も此方に寄ろうとしないその足が不自然で。

「・・・・・いいえ」

カガリは立ち上がると、目を見開くラクスの腕を無遠慮に引いた。


「アスランです」



ぎしり、と音を立ててベッドに二人分の重みが加わる。
ラクスは目の前の琥珀を凝視した。
やがて、ベッドの振動が収まっていく。


沈黙が重くなってきた頃、ラクスは双眸を細めて呟いた。
「………なるほど」
ゆるりと、笑む。

「あの彼が、貴女にね…」


カガリが黙ると、保険医は肩を揺らした。
まるで親しい友人のように寄り添う二人の間に横たわる空気は、それでも静穏とは程遠い。

「愛…愛…そうですか。ねぇ、アスハ先生。
ここは教師らしく、綺麗な言葉でまとめた方がよろしいのでしょうか?」
「必要ありません。貴女の本音が聞きたい」

空色の瞳はもう揺れてはおらず、今は愉快そうに琥珀を覗き込んでいた。
カガリは思わず息を呑む。


何処までも澄んだ春の空を湛えた双眸。
なのに、空気を満たす無菌室の匂いがそれは幻だと囁く。
これは、仮面。
偽物の空だ。
澄んで見えるのも錯覚だ。

(ああ、だって。あの日のアスランもこんな風に笑っていた)



「―――救いたいんです。アスランを」
カラカラに渇いた喉から絞り出された声は、掠れていた。

長い長い沈黙が落ち、ラクスはゆっくりと丁寧にカガリに手を伸ばした。
意志を持った陶器のような指が、その頬を撫でる。
「…教師然とでもなさるおつもりですの?アスハ先生」


一ヵ月前に彼に吐かれた言葉が、再び鼓膜を叩く。
ただし、今、眼前のラクスは彼と同じように笑ってはいない。
カガリは口の端を吊り上げた。


(さぁ、聞かせろ。貴女の本音を、貴女の言葉で。
それは、必ず答を探すヒントになる…!)





埋まった距離が、開戦の狼煙を上げた。

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