澄み切った視界が、胸を刺した。


『B・14』



伸し掛かる熱気。
耳障りな蝉の鳴き声。
喘ぐような猛暑の密度総てを遮断するガラスの向こうで、ラクスはゆるりと笑んだ。
「とりあえず……コーヒーでも飲みながらお話しませんか?」

え、と間の抜けた声を出すカガリを一瞥し、ラクスは座ったまま白木の戸棚に手を伸ばした。
陽に焼けた事の無い陶器のような皇かな指が、缶コーヒーを取る。
「先程、ヤマト先生からお裾分けして頂いた物ですの」


空色の瞳が僅かに伏せられ、睫毛の落とす影がその目元に落ちた。
主導権を握らせる気など、露ほども無い。

場にそぐわない小気味良い音を立ててタブを空ければ、黒い液体がゆらりと揺れた。




アスラン・ザラにまつわる過去は多少なりとも知っている。

例えば女性関係が乱れに乱れて、矯正の仕様が無い程歪んでいる事。
例えば彼の対人関係が虚構に塗り固められて、呆れる程中身が無い事。

(だから信じられない)
ラクスは思う。
彼が彼女に投げ掛けた質問の真意がわからない。

(…無償の愛?)


まず、自分の知っているアスランはそんな事を疑問に思うような少年ではない。
何故なら、彼はもう既に答を持っている筈だからだ。

持っているから、ビーなどという生業をしている。
セックスを金に換え、力で押さえ付け犯す事が出来る。

そんな男が今更、無償の愛を知りたい?



(何の為に?)



目の前の新米教師にアスランが興味を抱いているのは解っている。
だが、それはただの玩具としてだろう。
女に牙を剥かれた事の無い男が、物珍しさに普段より遊びに力が入っているだけだろう。
ならば、その事問いはただの言葉遊び。
でなくば暇つぶしの一興に違いない。

―――けれど。


(今迄、彼がそんな問答を誰かにした事など一度でもあったか?)


否、だ。
少なくとも自分の知る限りは。


ラクスは渇き始めた喉を潤す為、一口コーヒーを飲んだ。
手の中の薄っぺらいアルミの内側で、間接的とはいえ人肌に包まれているにも関わらず、冷えたままのそれがちゃぷんと跳ねた。
(彼は、その質問を何の為に)



喉がまた渇く。

前触れ、という言葉が浮かんで消える。
その意味を考えたくなくて、ラクスは再びコーヒーを一口含んだ。
甘く、ほろ苦く、黒い液体が喉に流れ込んでいく。
けれど、渇きは癒えない。

アルミの内側でただ、黒く染まった水が揺れ続ける。



「あ、あの、ミルクとかって…」
ブラックが飲めないのか、カガリは缶を手渡された姿勢のまま、困ったようにラクスを見上げた。
飲み込んだカフェインが胃まで到達するのを感じながら、ラクスはポーションを棚から取る。

「どうぞ」







カガリ・ユラ・アスハを初めて見た時を覚えている。

女性にしては少し低い、けれど、よく通るアルトソプラノと屈託の無い笑顔が印象的だった。
ただ漠然と、子供のようだと感じた。


(そう、まるで子供)
ラクスは目の前の小さな金の頭を見遣る。

健康的に陽に焼けた手から、カップを満たす黒に白がとぐろを巻くように注がれていく。

浸食される黒。
柔らかな変色。

――知らず、唇が震えた。



彼女は稚拙で性を持たない子供。
決して女ではない。

男に犯されるという事は、自身が女である事を突き付けられる事。
恐怖と快楽を呼び起こされる事。
そのどちらも引き起こされたに違いないのに、それでもアスランに啖呵を切り、あまつさえその相手を救いたいとは。

(どちらも打ち消す、そんな強い女などこの世にいる筈がない。
だから、彼女は女ではなく、子供だ)

そうでなければ、納得など出来ない。
唇を小さく噛んだ。


(…彼を救いたい?
有り得ない。そんな事)



子供の陳腐な道徳心で、人が救えるものか。






「無償の愛など、ございませんわ」
ミルクをスプーンで掻き混ぜていたカガリの手が、止まる。

「何故なら、愛には常に欲が付き纏うからです。
支配欲。独占欲。肉欲。
その捌け口に誰かを求める……故に無償とは正反対。

欲は他人に降りかかるものですからね」


ややあって、遠慮がちな声が復唱した。
「欲望と、捌け口?」
「愛が温かく、優しいものだというのは、上辺だけ見ている者の幻想だと思いますわ。
だってもしそうであるなら、セックスはどう説明されるのです?」
直接的な言葉に、思わずカガリは目を剥き何か言い掛けたが、
「あれは犯罪にも使われる行為ですし」
続く言葉に沈黙した。


「愛とは倫理と悪徳。
理性と衝動。
正気と狂気が交錯するもの。
愛は潔く、醜いですわ」

歌うように紡がれる言葉は、けれど、どこまでも怜悧な響きを持っていて。


カガリは暫く黙っていたが、やがて眉を寄せ、首を振った。
「…よくわかりません。そんな難しい理屈みたいのじゃないんじゃないですか、それって。
セッ…………をしなくても、人は人を想えるでしょう?
愛は行為でなく心で」
言い掛けて、息を呑む。

蒼白い瞳が琥珀を凝視していた。


「……なるほど」
ラクスが呟く。
柔らかな、けれど、感情の籠っていない声で。

「貴女は、やはり子供ですわ。
欲を感じる程、誰かを深く愛した事がないのでしょう」
「……どういう意味です」
「人は人を愛すると、先程申し上げたような欲が生まれるものですわ。
そして、もっと深く愛すると、破壊願望と破滅願望を抱くようになるのですよ」


破壊。破滅。


カガリはぱちんと瞬いて、ラクスを見詰め、徐々に半目になった。
「……嘘です。聞いた事ないです。そんなの。
てゆーか、私自身が抱いた事がないんですが」
「だからそれは、深く愛した事がないからで」
「ありますよ!父とか母とか!幼馴染とか!!」
「一人に絞れないようでは、まだまだ浅い愛情ですわね」
カガリはあんぐりと口を開き、
「だから、子供なのですわ。貴女は」
ラクスは笑った。


手の中で黒いままのそれが揺れる。
喉が渇く。
無菌室の何処までも澄んだ臭いは、視界を濁らせ、思考を透き通らせる。



「ビーの客としての女生徒達は、彼一人を深く愛していますわ。
破壊されたいとさえ思う程に。
そして、アスランは。彼は」


不特定多数を対象に、底無しの破壊願望を抱いているのですわ。
紡いだ言葉に、濁った視界の先で琥珀がドングリのように丸くなっていく。

ラクスは再びコーヒーを含む。
視界が更に濁った気がした。


「い、意味が…わからない…!」
「簡単ですわ。
女を貫き揺さぶりたい。男に貫かれ揺さぶられたい。
それだけですわ」
琥珀が混乱の色を浮かべ、忙しなく動く。

「美しい無償の愛など存在しませんわ」


自身の笑みが引き攣っている気がするのは、気のせいだろう。
声がまるで搾り出されたような響きに聞こえたのも。


もし気のせいでなければ、それはただ、喉が渇いているというだけだ。

ただどうしようもなく、渇いているせいだ。




カガリは目線を落とした。
手元で、コーヒーが揺れる。
黒でもなく白でもない。
中途半端なそれに、逆さまに映った己が見えた。



ちゃぷん。


ラクスがまたコーヒーを飲んだ。
カガリの耳に、カチとアルミに爪が当たる音が届く。
手が汗ばんだ。

――――空気が、重い。





脳裏に浮かぶのは、夕陽に佇むアスランの姿。
暗く光った、翡翠の瞳。
他人を求め。
踏み躙って。
どんどんと消して。

どんどんと。
どんどんと。


欲しいものを、大切なものを。

自分で、消して。
追いつめて。

そして彼は何を求めるのだろう?

何を望むのだろう?




(――――――そんなの、とうにわかってる)





カガリは、不自然な笑みを浮かべたままのラクスを見た。
向かう空色の瞳も、こちらを向いた。


それを見た時、ラクスは胸がギシリと軋む音を聞いた。
目の前の新米教師は唇を僅かに震えさせ、澄んだ瞳は傷付いたように揺れている。

彼女は確かに彼に犯され、傷を負わされ。
けれど、その眼差しは変わらなくて。
何故か、変わらなくて。
澄んだままのように感じて。


(…子供だから?)
何故、これ程打ちのめしても濁りが生まれないのだろう。




「無欲なアスハ先生。何故アスランを救おうと?」
「……私は教師です」
「博愛精神ですか?平等な愛などゴミですわ」
視界の端で金が揺れた。



(物事を裏から読めない子供だから、そんな単純に動けるのだ。
襲った男を救おうなどと思えるのだ。
でなくば、何故そんな目が出来る?)



不快な程渇き続ける喉が、水分を求めて小さく震える。
えも知れぬ苛立ちが燻る。
黒いそれは、いつの間にか半分近く減っていた。





「……それでも」
蚊の鳴くような声が、落ちる。



「私の中には…あると思います」
琥珀がゆっくりと瞬く。




「私はあいつに願望なんか抱かない。欲も抱かない。見返りなんか、いらない」


空色の瞳が揺れる。
喉が渇く。
視界が透き通る。



「あいつ…言ったんです。
手に入らないものを欲しがりたくなんてないって」


濁った視界が透けていく。
唇が色を無くした。


「こんなに淋しいセリフは無いでしょう?
私は、アスランにもっと色々欲しがって貰いたい。

求めているものを。
望んでいるものを」



視線の先の女は何処までも真直ぐで。
声は震え、握り締めた拳も震え、けれど、両の瞳はどこまでも真摯に煌めいていて。

黒でもない。
白でもない。
中途半端な、けれど、とてもとても柔らかな。


水が揺れて、揺れて――――――静まる。




「それは、愛なんだって教えてやりたい」





ラクスは全身を震わせて、缶を握り締めた。
その中にはもう、渇きを潤す黒は無い。

透き通った琥珀には、何処までも濁りは見えなかった。

(あぁ、そうか)
ラクスは泣きそうに笑んだ。
(貴女には最初から答が見えていたのだ)






「無償の愛は、貴女なんですのね」

小さく、小さく、呟いた。
澄み切った視界が、胸を刺した。


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