渇いた心が。
ひび割れた心が。
どうしようもなく飢えた心が。
『B・15』
空色の目を閉じて、彼を思う。
その先に浮かぶ翡翠の少年は、甘く冷えきった笑みを浮かべている。
強がりのような。
弱音のような。
渇望のような。
絶望のような。
そんな言葉の後に。
(無償の愛を尋ねたの、アスラン)
いつからだろう。
初めて出会った頃の彼は、もっと無邪気な笑みを浮かべていたのに。
あの日見た彼は、もう変わっていた。
思い出したくない過去が、脳裏で音を立てて迫る。
滅多に会わない従兄弟に気まぐれに会いに行ったあの日。
少しだけ開かれた白樺の扉の向こうに見える光景に、ラクスは声を失った。
「あぁっ…!!あっ、あぁっ!!」
あられもない声をひっきりなしに上げる女が、アスランに跨がり腰を踊らせていた。
「アスラぁン…っ!!」
家政婦だった。
一心不乱に腰を振るその姿は、雌そのもの。
甘い悲鳴と懇願と、肌の激しくぶつかりあう音。
飛び散る水の音が、ラクスの思考を奪う。
「あっあっあっあっ!そこ…いい…っ!!はぁぁぁんっ!あんあんあぁんっ!」
淫らとしか言い様がない嬌声に、ラクスは口元を抑えた。
年端もいかぬ少年と成熟した女の情事の、その異常さ。
激しく腰を突き上げる少年の表情は、見えない。
「あぁぁ――……っ!!」
高く鳴いて女が全身を痙攣させる。
ゴポゴポと秘所から液体が溢れ出る。
ラクスは足が竦んで動けない。
恍惚とした女はまるで別世界の住人のようで、気持ちが悪い。
そして、その余韻に喘ぐ女を休ませる事もなく再び突き上げる少年もまた。
「あっはぁぁ―――っ!!」
獣の咆哮が響く。
「あ――っ!あ――っ!!だめぇ――っ!!」
起き上がり、反転させ、背中から抱き込み。
細い膝裏に手を入れ、両足を大きく開脚させ、よりいっそう激しく挿入を繰り返し。
吐き気を必死に堪えるラクスの鼓膜に、激しい水音と、声が届く。
「イけよ…死ぬほどイけよ……!」
うわ言のような。
「壊れろ!!」
咆哮のような。
それは、無邪気だった従兄弟の声。
ラクスはその時初めて従兄弟の顔を見た。
目を大きく見開く。
貼りついた笑みは憎しみに縁取られ。
見開かれた翡翠は怒りに淀んでいる。
ラクスは悟った。
この情事に、愛は一人分しか無い。
家政婦だった雌は何度も何度も達し続け、
「アスランッ!!あぁっ!愛してる……んぁぁあぁぁぁあぁ――っ!!!」
愉悦の表情のまま激しく潮を噴き、気絶した。
少年に対する愛を叫びながら。
――ラクスは声も無く、見ていた。
ただ、声もなく、ずっと。
記憶は薄れる事は無かった。
自分は彼の変わり行く様を見続け、そして、何もしなかった。
墜ちていく従兄弟をただ、見ていた。
恐ろしかった。
哀れだった。
けれど同時に、救いようがないとも思っていた。
静まり返った保健室の中、ラクスの零した小さな笑みがカガリを戸惑わせる。
柔らかで、けれど何処か冷めた印象の普段の笑みとは違う。
(…この人もこんな顔をするんだ)
やはりアスランと似ている、とカガリは思う。
(傲慢で、辛辣で。まるで、それ以外人との接し方を知らないみたいで。
――――なのに)
時折、掠めるように寂しく笑う。
「私が…無償の愛?」
カガリは、先程言われた言葉の意味を尋ねた。
答は、すぐに返らない。
ラクスは瞳を伏せてから、諦めたように息を吐く。
ゆっくりと腰を上げれば、ギシリとベッドが軋んだ。
「…だって、そうでしょう?」
一歩。ニ歩。
広がった距離に、鈴の音がぽつりと落ちる。
「貴女ほど惜しみ無く彼に心をぶつけた方に、私は今迄お会いした事がありませんもの。
だから、私は欲や畏れの無い愛など信じていませんでした」
カガリは笑った。
「…心でぶつかるのは当然なんですよ、クライン先生」
空色の瞳が振り返る。
「全身全霊でぶつかって、初めて理解出来る事もあるんです」
ラクスは暫く黙ってから、じっとカガリを見つめた。
「救えますか?彼に愛を与える事が出来ますか?何処までも他人の貴女に」
「世の中殆どが他人でしょ。あいつはそろそろ他人を求めるべきなんだと思います。
母親の代わりや、怒りの矛先としてじゃなくてね。
大切な誰かを見つけて、その人の強さや弱さ…それこそ仮面ごと包み込める強さを手に入れるべきです」
「…」
「与える事だって出来ますよ。
あいつが求めている形かは解らないけど…そうですね。例えば」
カガリは笑った。
「力一杯抱きしめておかえりくらい言ってやります」
静寂が落ち、やがて、ラクスもまたふわりと笑った。
とても優しげな、初めて見せる笑みだった。
「信じましょう、貴女を」
柔らかい鈴の音が桜色の唇から零れる。
歌うように。囁くように。けれど、それは確かに強さを持っていて。
「貴女の愛と、貴女の持つ力を」
琥珀がぱちんと瞬く。
「ク、クライン先…」
「…私はただ目を背けていただけでしたわ…」
ラクスはゆるりと視線を正面に向けた。
そこには白い扉がある。
無菌室を外界と遮断する、無機質な扉。
「自分の薄情さと、矮小さに嫌気がさします」
一歩。二歩。
自分は外界へと繋がるその扉を開けなくてはならない。
曖昧な干渉を続けていた自分が、しなくてはならない―――彼の為にも。
「でも、ねぇ…?」
そうして、ラクスはその扉に手を掛けた。
「貴方も私になんて、何の期待もしていなかったですわよね?アスラン」
引かれた戸の向こうに現れた姿に、カガリはびしりと音を立てて硬直した。
藍色の髪。
翡翠の瞳。
見間違う筈もない。
そこにいたのは紛れもなく今の今まで話していた件の少年―――アスラン・ザラその人だった。
「いつからそこにいましたの?」
ラクスの問いに、答が返る。
「……救いたいんです、から」
甘いテノールは、喉に引っ掛かったように零れた。
硬い光を宿した双眸は、もはや睨み付けるといっても過言ではない程に、強くカガリを凝視している。
(…ほ…殆ど最初から立ち聞きしてたのかよ…っ)
赤くなればいいのか、青くなればいいのか。
口をパクパクと開閉させるカガリを睨みながら、アスランは一向に引かない掌の汗を感じていた。
朝から頭がずっと痛んでいた。
元々偏頭痛持ちだったが、今日はいつにも増して酷かった。
一時限目が開始される前に、心配したルナマリアに薦められるまま保健室へと足を向けた。
勝手知ったる扉を開けようとし、
「救いたいんです。アスランを」
聞こえた声に手を止める。
従姉妹のものではない。
それは一月前に責め抜いた、あのカガリ・ユラ・アスハのものだった。
伸ばした手が静かに降りる。
知らず耳をそばだてる自分に気付き、アスランは戸惑った。
(――俺らしくもない)
自分が投げた問いの答は、一月経っても未だ返されていない。
時折聞こえる保健室の中の会話から察するに、どうやらラクスに相談しているようだ。
(…人選ミスだよ、先生。ラクスは愛を信じてない。答なんて持たない)
我ながら無駄な質問をしたかもしれない。
無償で動く人間などこの世にはいないのだから。
高尚な精神と無報酬を高々と掲げる者が世間から受けるのは、感動や称賛ばかりでは無い。
より色濃く出るのは、疑惑と嘲笑だ。
(この偽善者め、とな)
人は無欲の存在など、信じない。
自身がそうだから、尚更そうなのだ。
どんなに体裁を取り繕っても、この世は所詮私利私欲で成り立っている。
人に囲まれ生きている人間に、本当の意味での無償の精神など。
(持てる筈が無いんだ・・・!)
アスランは己の掌が汗ばんでいる事に気付いた。
暫く眺め、無表情にそれを制服に擦り付ける。視線を扉へ向けた。
(今すぐここを開けて、あの身体を押さえ付けたい)
答は出ない。
それでいい。
何も考えず、貫いてしまいたい。
あの屋上での自分は少しおかしかった。
その様をあの女に知られている事に、今更ながら違和感を覚える。
自分が語った過去話は、さぞ彼女に衝撃を与えた事だろう。
同じものを見て、同じ事を感じない我々は、きっと何処までも平行線だ。
(…本当に色々喋り過ぎた)
あの総てを無かった事にして、カガリも他の女と同じ様に抱いてしまえばいい。
(立て続けにイかせ続けて、声が枯れるまで啼かせて)
あの屋上での吐露も、問答も、彼女の中で消え去るくらい目茶苦茶に。
冷えた欲情が鎌首をもたげる。
なのに、何故だろう。
掌は汗ばんだまま、一向に冷めやらない。
擦り付けた箇所は皺になったまま、熱を宿している。
(…緊張している…のか?この俺が…)
それはまるで、追い詰められたように。
有り得ない、とアスランは呟く。
それでも脳裏から離れない映像が、頭痛をいっそう激しくしていく。
目眩が、した。
『そんな事に気付かないなんて可哀相な奴だよ!!』
怒りに震えた小さな拳。
『それでも逃げたくない!お前から!!』
強い、強い、あの眼光。
(…何故、ずっと頭から離れないんだ…?)
ここ一月の間、ずっと。
アスランは額を抑えた。
頭痛が酷くなっていく。
掌の汗が額につき、忌々しげに再び服の裾に擦り付けた。
部屋の中の声は、徐々に押し問答のようになっていっている。
カガリの必死な声とその内容に、アスランは更に追い詰められていく錯覚に陥る。
(…冗談じゃない…!)
反吐が出る程、無邪気な女。
汚したくなる程、無垢な女。
己の中から生まれ出る狂暴なまでの嗜虐心。
女全般に対して抱いている感情を、彼女に対してはより強く、遥かに強く抱く。
「私はあいつに願望なんか抱かない。欲も抱かない。見返りなんか、いらない」
やめろ、とアスランは呟いた。
聞いてはいけない。
「私は、アスランにもっと色々欲しがって貰いたい。
求めているものを。望んでいるものを」
扉を開けて出て行って、あの女の口を塞ぎたい。
なのに、どうしても足が動かない。
「それは、愛なんだって教えてやりたい」
アスランは声にならない声で絶叫した。
(そんなもの欲しくない!欲しがってなんかない!だって、俺は誰も愛してないんだ!愛されたい誰かなんていないんだ!愛してくれる誰かなんていないんだ!!)
認めてはいけない。
認めたくない。
そんなものが、今更現れたって。
価値観を覆される事の方が、アスランにとっては恐怖だ。
己がしてきた行いに多少なりとも非を自覚しているからだ。
だが、それを正当化して余りある程の理由があったのだ。
だが、それを、それさえも。
(間違いなのだと言われたら…!!)
悔いる事などしたくない。
それを強いるのが、あの純粋無垢な女なのか。
それを諭すのが、どこまでもわかりあえない筈の、あの猪突猛進の女なのか。
けれど、渇いた心が、ひび割れた心が、どうしようもなく飢えた心が。
「無償の愛は、貴女なんですのね」
問いたい。
聞きたい。
本当に自分を愛してくれるのか、と。
「…ラクス」
重苦しい沈黙を破ったのはアスランだった。
「…なんですか?」
「出ていってくれ。それから誰もこの部屋に近付かないようにしてくれ」
カガリは目を見開いて、アスランを見つめる。
その真っ直ぐな琥珀を、少年もまた見つめ返した。
「無償の愛を俺にくれるんだろう?それを教えてくれるんだろう?」
一歩。二歩。
熱と怒りと困惑を湛えた双眸が、それでも縋るように向けられる先には、どこまでも純粋な新米教師。
「加減なんてしないから。目茶苦茶に抱く。
それでもあんたが俺を愛してくれるってのなら、俺はもうあんた以外いらない」
カガリは小さく息を呑んだ。
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